2017年7月6日木曜日

「中国百科 文化スポーツ編」第3節 囲碁

4-13.03 [中国百科 文化・スポーツ」 囲碁

囲碁
 人間と人工知能「棋士」との闘いは、中国・浙江省で開かれた“フューチャーGOサミット”(Future of Go Summit)で5月23日、25日、27日に行われた。その2017年5月27日の最終試合では、世界最強の棋士と称される柯潔(カ・ケツ)がグーグル傘下のDeepMindが開発した人工知能(AI)「AlphaGo」に負けを喫して幕を閉じた。この結果により、柯の完全な敗北が決まった。

 この勝利をどう見ればいいのか? 人間は自ら作り出した人工知能に勝つことは出来ないのか。人間が人工知能によって制覇されるのではないかという「恐れ」さえも抱いてしまう。
 これについて、AlphaGoを開発したDeepMindのCEO、デミス・ハサビスは、サミットの開会式で「柯潔が勝とうとAlphaGoが勝とうと、それは人間の勝利である」と語った。AIはあくまで人間が使う道具であり、これまで見通せなかった領域に人間を導いてくれる「ハッブル宇宙望遠鏡」のような道具となるのだと強調した。そしてそれは、囲碁の世界においても同じだという。

囲碁の誕生から今日まで
  囲碁は中国の唐代に日本に伝来したと言われている。中国では頭脳のスポーッとして扱われている。たしかに囲碁は知力と精神力の格闘技なのかもしれない。囲碁は現在、世界約 70 カ国で打たれており、プロ制度が設けてられているのは中国、日本、韓国、台湾のみである。起源から現在に至るまで、アジアが常に囲碁の中心にいる。
 その歴史は古く、伝説の時代三皇五帝の時代に早くも碁が教育に用いられたという言い伝えもある。
 春秋時代からは、孟子の 『孟子』 、孔子の『論語』にその記載がある。2002年には、前漢時代の墓から最古の碁盤が発掘されている。陶製で17路だっただろうということである。
 そして、南北朝時代、碁盤は17 路から19 路に拡大、囲碁の黄金期を迎え、囲碁の全国大会まで開かれている。 それから、中国では碁は脈々と打ち続けられ、文化大革命のときに一時迫害されたこともあったが、復活してからは、日中の囲碁大会もあり、中国は王座に居座り続けている。


碁盤の中から世界の網の目に
 しかし、DeepMindをその傘下に置いたGoogleは同様の企業を吸収合併し、地球規模の巨大な「AIネットワーク」を構築しようとしていると聴く。巨大な企業が、その金と力に任せ、あらゆるものを呑み込んでしまう可能性はある。人間の英知はその欲望に勝てないのだろうか。未だ制御できている間に、あらゆる国は人々が協力して、コントロールする仕組みを作り上げないといけない時に来ている。




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2017年6月1日木曜日

「中国百科攻略ノート」 映画 「中国映画の黎明」

中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編

中国映画の黎明を追加しました。

 中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
 1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。


劇映画と教育映画
 1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
 1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
 1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
 張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。


商業映画化が進行
 1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。

古装映画と武侠映画
 1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
 明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。


「中国映画界の誕生」に係る補足説明は ☜ こちらをクリックしてください

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2017年3月28日火曜日

「中国百科 文化編」 10.03 世界に広がる華文文学

世界に広がる華語文学

世界に広がる华文(華文)文学
最近では中国から見た海外の中国人作家の文学を「海外」というのではなく、「世界」という言葉を用いて、「世界華文文学」と表現している。
東南アジアにはそのほかにタイ、フィリピン、インドネシア、ブルネイなどにも華文で創作する作家たちが華文作家協会を結成し、作品を載せる華語の新聞、雑誌も発行されている。
オーストラリア、ニュージーランドにも華人作家はいる。欧米には長年その土地に住む華人による華文文学の他に、新たに中国を出、エミグラント(移住者)として在住している高行健や北島のような作家、詩人がいる。


シンガポール・マレーシア
シンガポールの華人人口:400万人を背景に、「新華文学」
マレーシア華人人口:700万人 「馬華文学」と表現している。
東南アジアにはそれぞれの国で活躍する華人たちが華文作家協会を結成している。
シンガポールを代表する作家 黄孟文
マレーシアを代表する作家 朶拉
マレーシアでは華語環境を維持するのはシンガポールよりも厳しく困難であるが、タイの司馬攻とともに中国でも刊行されている。


欧米・台湾に広がる華語文学
欧米・台湾を代表する作家: 劉賓雁、北島、高行健、李昴、白先勇
新しく移住した、既に一定の実績を持つ作家が中心で、東南アジアの華文文学とは性格を異にする。


 欧米
  • 1960年代から90年代にかけてアメリカのアイオワ州立大学の創作センターを台湾の白先勇、瘂弦、中国大陸からは王蒙、劉賓雁などが訪れ、滞在した。このうち劉賓雁はアメリカで生涯を終えた。
  • 文革後の作家劉索拉、阿城はアメリカに在住、台湾からアメリカに移住した聶華苓、於梨華の2人の女性作家はそれぞれ代表作をアメリカで書いている。
  • 『今天(TODAy)』(1978~80年刊行の地下文学雑誌)の創始者北島はイギリスに渡って『今天』を再刊し、同誌に発表した作品を詩集『天涯にて』にまとめて出版した。
  • 海外でもっとも成果を上げた華文作家はノーベル文学賞を受賞した高行健である。『ある男の聖書』と『霊山』はノーベル文学賞受賞作である。
    『ある男の聖書』は、今は外国で暮らす劇作家の中国にいた頃のさまざまな体験と現在のエミグラントとしての生活が描かれている。主人公に中国にいたころを「彼」という3人称を用い、現在を描く時は「おまえ」という2人称を使うという手法で書かれた作品である。
 台湾
 台湾文学は通常華文文学に含めないことが多いが、五四以来多くの優れた作家、作品を生みだした。
  • 李昂:  フェミニズム文学の代表で、虐げられた女性が暴力をふるう夫を殺害する『夫殺し』を書いた
  • 白先勇: 男性の同性愛者を描いた『罪の子』を発表した
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2017年3月7日火曜日

変文と元雑劇と明清の戯曲

変文から元雑劇をへて明清の戯曲へと広がる文芸の世界

文人の作る文学の主流が文言(文語体)であったのに対し、白話(口語体)の文学は「俗」と見なされ、当時はあまり評価されなかった。しかし特に元代以降 1つの文化として大きな広がりを見せたことには間違いがない。

変文から宋の芸能まで
[変文」は、唐代中期に盛んとなった韻文と散文を組み合わせた語り物で、元は布教のため仏教僧が民衆に絵を見せながら語るものだったが、後に仏典と関係のない題材も扱われ、 『伍子胥変文』 など歴史物もある。変文は、 20 世紀初頭に敦煙で唐などの古文書とともに発見された。
  • 宋代、都市の発達に伴って、民衆向けの様々な芸能が活況を呈し、雑劇と呼ばれる演劇が人気を博した。金でも、院本と称する演劇が存在したほか、語り物の一種「諸宮調」が行なわれ、董解元 『西廂記諸宮調 』 が現存する。

元雑劇(元曲)
元代、科挙が中止されると、出仕の道を断たれた知識人が雑劇の製作に多く参与するようになり、その芸術性は格段に向上した。雑劇は、通例 4つの「折」すなわち 4 幕に分けられ、また「楔子」と呼ばれる小段が加えられることがある。それぞれの折は、「唱・科・白(うた・しぐさ・せりふ)」から構成される。
  • 後世に最も影響を与えた作品は王実甫 『西廂記』 で、張生と崔鶯鶯の恋物語である。
  • 関漢卿は元雑劇の代表作家で、話し言葉を駆使した素朴な文体、 4折の短編劇に相応しい緊密な構成にすぐれ、 『救風塵』 『賓蛾寛』など、女性を主人公とした作品が多い。
  • 馬致遠の 『 漢宮秋 』 は、王昭君の不幸な物語を題材とする。
  • 他にも殺人事件をめぐる裁判劇である孟漢卿 『魔合羅』 、家庭のいざこざを描いた武漢臣 『老生児』 などがある。これらは明の時代に偏纂された 『元曲選』 によって広く流布した。

明清の戯曲
明代には、5 音階の南方系歌曲を用いる「南戯」が隆盛した。南戯には長編が多く数十段に及ぶものが多い。また主役に限らず、あらゆる役柄がうたうことができ、これらの点が雑劇と対照的である。
  • 元末明初の高明の名作 『琵琶記』 が南戯隆盛のさきがけとなった。
  • 有名な作品としては 「荊劉拝殺」と称され『箭钗记』 『劉知遠白兔記 』 『拝月亭幽関記』 『殺狗記』 の 4大作がある。
  • その後南戯は低迷期に入るが、後の崑曲につながる[崑山腔」が創始され、梁辰魚 『浣紗記』 などが人気を博した。
  • 明代最高の劇作家は湯顕祖で、 『 紫钗記 』 『 牡丹亭還魂記 』 『 南柯記 』 『邯郸記 』 の 4 作品は、みな夢をテーマとし、彼の書斎名をとって「玉茗堂四夢」と総称される。特に 『牡丹亭還魂記』 は明代南戯の代表作で、 2 人の男女が夢で恋に落ち、最後は現世で結ばれる、という内容を美麗な文辞で綴る。
  • また明代南戯の選集に、明・毛晋 『六十種曲』 がある。
  • 清代南戯の傑作は洪昇 『 長生殿 』 と孔尚任「桃花扇 』 である。 『長生殿』 は、唐の玄宗と楊貴妃のロマンスを描いた。 『 桃花扇』 は、作者自らが体験した明末の動乱を題材に実在の人物を登場させた歴史劇である。
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古文復興と八大家

古文復興と唐宋八大家

文の世界では、南北朝時代の骈文の流れは唐代まで続いていた。 しかし骈文から脱却しようとする動きが中唐になって出てきた。

韓愈と柳宗元
韓愈は自然な文体を創出することを主張し、先秦から漢代の文体を模範とした。柳宗元は一生の大半を僻地で過ごしたことにより、その作品は自然や人間を措いたものが多い。彼らの新しい文体は「古文」と呼ばれた。


唐宋八大家
古文運動は韓愈らの時代には主流とはならず、晩唐から宋の初期には骈文が復活する。末代の古文運動は欧陽脩に始まる。後に「唐宋八大家」欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人を、後に」
  • 官僚としてもほぼ頂点を極めた欧陽脩は、科挙制度の責任者になったことも重いし、後進の王安石や蘇軾らとともに、古文を普遍的な文体とすることに成功する。
  • 韓愈を範とした欧陽脩の文がやや難解であるのに対し、蘇軾のそれはさらに自然な趣を持つ。
  • 彼らの文章は後世の規範となったため、後に「唐宋八大家」と称されるようになったのは、欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人である。
  • 「唐宋八大家」  欧陽脩、曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍、蘇軾、蘇洵、韓愈と柳宗元

伝奇
南北朝時代に起こった「志怪」のジャンルは、唐代には「伝奇」となっ て受け継がれる。志怪の多くが出来事を記すのみだったのに対し、伝奇は物語としての完成度が高い。さらに時代が下 ると、伝奇のテーマの主流が怪奇な現象から才子佳人の話に移るようになる。なお、怪奇な事象を記した文言小説はその後も受け継がれ、清代には更なる傑作が生まれるようになった。


  • 沈既済の『枕中記』、『任氏伝』、李公佐の 『南柯太守伝』がその代表である。
  • 張鷲の『遊仙窟』は中国では早くに失われたものの日本で長く伝えられた異色の作品である。
  • 白居易の弟の白行簡の『李娃伝』(795年)や元稹の『鶯々伝』が有名である。
  • 清代には『聊斎志異』『子不語』『閲微草堂筆記』などの名作を生むこととなる。
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「中国百科 文化・芸術編」 辞賦と文言小説

中国古典文学の「文」形式

中国古典文学の中心は古来「詩」と「文」とされる 。 ここで言う文とは 文語体(文言)の散文などを指し、口語体(白話)の小説などは含まない。


戦国時代から漢代、南北朝時代にかけて「辞賦」あるいは「賦」と呼ば れるジャンルがあった。宮廷に仕える文人が皇帝や皇族に捧げる文が「辞賦」である。
  • 漢の武帝の時代の司馬相如に「子虚の賦」「上林の賦」という作品がある。壮大な狩猟の様子を描写しつつ漢の皇帝を称え、かつ調 轍で締めくくる内容になっている。
  • 後漢には班固の「両都の賦」、張衡の 「二京の賦」があり、いずれも前漢と後漢の都、長安と洛陽の繁華な様を綴った名作である。
  • この時代に編まれた『文選』は、南北朝時代の南朝梁の昭明太子がそれまでの文学の住作を集めて編んだ選集で、大変価値の高いものである。
志怪
南北朝時代に「志怪」と呼ばれる短編小説が流行した。ただ「志怪」の体裁は統ーされておらず、非常に短いもの、 結末がないものも多い。
  • 東晋の干宝の『捜神記』 や規の曹丕の撰とされる『列異伝』、南朝宋の劉義慶の『幽明録』などがあり、奇怪な出来事を記す。
  • このジャンルは唐代の「伝奇」を経て、清代の『珊斎志異』等に至るまで受け継がれる。
世説新語
宋の劉義慶の『世説新語』は、当時の名土の逸話を集めたもので、「志怪」に対して「志人」小説と呼ばれることもある。
  • 三国志で有名な諸葛亮 ( 孔明 ) の登場する方正篇などがある。
骈文
南北朝時代頃から、文章を4字や 6字で区切って対句の形式とし ( 四六島井傭体)、詩のように平仄を意識した方式が主流となる。そもそも骈文とは対偶法で書かれた文章のことを言う。(べん文)
  • 制約の多い骈文の流行により文章の内容よりも形式にとらわれた不毛な作品も多くなり、これが中唐の古文復興運動へとつながっていく。

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2017年3月6日月曜日

「中国百科 文化・芸術編」現代文学をめぐる「運動」と「制度」

現代文学をめぐる「運動」と「制度」の狭間の苦闘

中国現代文学は、激動する各時代において中国社会が直面した課題との熾烈な闘いの中で生まれた。その意味で、その時代の文学の「対抗軸」を考えることで「文学運動」と「文学制度」の狭間でもまれ続けてきた姿が浮かび上がる。

伝統文化・古典文学からの脱却を目指して
近代文学が、その封建的遺制から抜け出し、強肉弱食の世界に投げ出された中国社会に対峙して最初に直面した最大の壁は、1000年以上も続いた強固な封建的風土との闘いであった。それは文学云々の問題ではなく、社会の根底まで深く根ざした社会の後進性であった。
  • 1910年代後半には「五四新文化運動」が巻き起こり、「科学」と「民主」の普及が叫ばれた。
  • 文学領域では、胡適「文学改良審議」・陳独秀「文学革命論」(ともに1917年)が、文語定型体により高踏的世界を措く古典文学からの脱却を主張した。 
  • 魯迅は口語体小説『狂人日記』(1918年)を書き、封建的イデオロギーを批判した。
  • 1920年代に入ると、「文学研究会」や「創造社」をはじめとする文学団体も結成されて、「新文学」は定着していく。都市部を中心に、「革命文学」や「モダニズム文学」の運動も隆盛を迎える。

欧米列強そして日本の侵略に抗して
1920~30年代にかけて欧米列強そして日本の中国侵略がエスカレートしていくと、これに対する抵抗が文学的課題になっていく。
  • 1930年には魯迅も指導的役割を発揮した「左翼作家連盟」が結成され、国民党系文学者への批判や、文字が読めないような人々をも視野に入れた「文芸大衆化」運動を展開した。
  • 満州事変(1931年)以降、日本の中国侵略が本格化すると「抗戦文学」がスローガンとなり、前線や農村に赴いて宣伝活動に従事する作家たちも多かった。
  • 共産党根拠地・延安では、1942年、文芸座談会が開催され、毛沢東が「現在必要な文学とは何か」をめぐって講演を行なう。後に整理されて「文芸講話」(1943年公表)と呼ばれる。抗戦下の農村という特殊な環境に基づく文芸政策だったため、「文学は工農兵(労働者・農民・兵士)に服務する」という教育・宣伝作用を極度に重視し、文学を政治的基準から評価する傾向が強かった。

対抗軸としての「政治」から「創作自由」への苦闘
中華人民共和国が成立すると、毛沢東「文芸講話」の内容こそが目指すべき新しい中国文学(「人民文学」)の指針とされる。特殊な環境下での文芸政策が全国的に普遍化された。また、作家は中国作家協会に所属しなければならないという作家の組織化も進められた。こうした「文学制度」は、作家の生活保障という側面も存在したが、文芸思想を統制していく役割も担った。このように新しい国づくりに新しい息吹が感じられなければならないにも拘らず、社会や人々の意識は遅れた社会の中で飢えと苦しみにのた打ち回らなければならなかった。これも社会の後進性が重くのしかかった。
  • こうした状況に最初に異議申し立てをしたのが詩人・文学理論家の胡風「三十万言意見書」で、「完璧な共産主義世界観がなければ創作してはならない」ことを求めていると批判した。だが、胡風は1955年、「反革命罪」で投獄されてしまう。
  • その後、文革までの期間は、この「文学制度」は基本的に機能し、作家は抑圧状況に置かれた。
  • 文革後、建国以来の「文学制度」に対する見直しの動向も進み、1985年、「創作自由」が提唱される。
  • 作家・知識人たちは創作や社会的発言を通じて、中国社会における民主主義を拡張していったと言えるだろう。

商業主義との拮抗と中国文学の行方は?
まさしく遅れた社会を取り戻すためには、実に大きな犠牲を払わなければならなかった。中国の人々は、段階的な手順を踏むことなく、「市場原理社会」というパンドラの箱を開けてしまった。
  • 1990年代から21世紀に至ると、中国社会は市場経済の全面展開に基づく高度経済成長を遂げ、市場原理がすべてを貫く市場社会を出現させていく。
  • 高度情報化社会の登場とも相まって文学領域にも商業主義が蔓延し、「純文学の危機」が叫ばれたりもする。 
  • 作家・知識人たちは「人文精神論争」「『新左派対新自由主義』論争」と称される言説を積み重ねながら、商業主義と括抗する中国文学の未来を切り開こうと試みている。


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「中国百科 文化・芸術編」科挙の詩人たちと詞

宋代の詩人たち

はじめに
唐も終わり、五代十国の時代を経て成立した宋代に入ると、科挙制度が定着し優秀な官僚でもあり、優れた詩人たちを輩出した。

晩唐詩
晩唐の代表的詩人には杜牧・李商隠がいる。

北宋の詩人たち
宋詩の特質はその理性と知性にあり、唐詩のような奔放な心情の吐露は影を潜める。題材も日常の些細な出来事を冷徹に詠むことが多<なる。欧陽惰・梅尭臣がこうしたそし詩風のさきがけとなり、その後王安石と蘇軾が現れる。
  • 蘇軾は宋を代表する詩人であり、政争による度重なる流れにも屈しない、楽観的な逞しさが、その詩にも明朗闊達な趣を与えている。
  • 弟の蘇轍、字は子由
  • 蘇軾の門下黄庭堅は宋詩の理知性を最もよく代表し蘇軾とともに「蘇黄」と併称される。

南宋・金の詩
金に北方を占領され、臨安に遷都して以降を、南宋と言う。南宋第一の詩人は陸游で、愛国や閑適などを題材とした、一万首に近い詩が今に伝わる。
  • 金では、元好問が杜甫の影響を受け重厚な詩を作った。元以降、その時代を代表する傑出した詩人が現れることはついになかった。

詞とは詩余とも呼ばれ、唐代に始まり、宋代に絶頂を迎えた歌辞文芸である。
  • 晩唐の温庭筠から独自の発展を始めた。
  • 五代には詞選集『花間集』が編纂され、南唐の国主李璟・李煜父子らの宮廷で詞が栄えた。
慢詞
詞牌と呼ばれる既存の楽曲に後から歌詞をつけるので、一つの楽曲に複数の歌詞が存在する。詩と異なり、一旬の字数が長短不揃いなのも特徴の 1 つである。
  • 北宋では、それまで詞の主流だった短編の「小令」に加え、長編の「慢詞」が作られた。
  • 慢詞の達人には柳永がおり、また蘇軾は、艶っぼい作品の多い詞の世界に詩の題材を持ち込み、新境地を開いた。
  • この他、典雅な慢詞を作った周邦彦、女性詞人李清照、南宋の辛棄疾らがいる。
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「中国百科 文化・芸術編」漢詩の起こりと進化

漢詩の起こりと進化

はじめに
儒教の最初の経典、つまり孔子やその弟子が編んだとされる書物に、「四書五経」(大学・中庸・論語・孟子・詩経・書経・易経・礼記・春秋)がある。そのうち文学の最初の書と言えるのが『詩経』である。

■詩経
『詩経』は春秋時代の中期ごろの当時の中国北中部の地域の歌305篇を集めたもので、編纂者は孔子と言われている。『詩経』は「風」「雅」「頒」の3つに分類される。 
  • 「風」は国風とも言い、春秋時代の各地の歌謡で160篇あり、地方ごとにさらに「周南」「召南」「榔風」「麟風」など15に細分化される。
  • 「雅」は周王室の宴会等で歌われた歌謡で105篇あり、「小雅」と「大雅」に分けられる。
  • 「頒」は祖先を祭る際の歌で40篇あり、国によって「周頒」「魯頒」「商頒」に分けられる。詩は1句4文字の四言詩で、偶数句で韻を踏む。

■楚辞
『詩経』の詩から300年ほどのち、南の楚の国の歌を集めた『楚辞』が編まれた。
  • 『楚辞』の中心的な作者は屈原である。楚の王族の出身とされる屈原は、大臣として活躍するが勢力争いに敗れて追放され、失意のうちに滑羅(川の名)に身を投げて死んだと言われる。屈原の代表作は「離騒」 で、楚辞の代表作でもあり、失意のどん底にあった屈原が、その怒りと悲しみを詠った作品である。
■五言詩と陶淵明
詩はその後、後漢から六朝時代にかけて五言詩が一般的となり、さらに七言詩が生まれてくる。こうした形態は漢代に起こった「楽府」という歌謡が起源と考えられる。南北朝時代に編纂された詩や文の選集『文選』収録の「古詩十九首」が古い五言詩として最も有名である。
  • 三国時代の親の皇帝一族である、曹操、曹丕、曹植はいずれも文学者としても高い能力を持ち、多くの五言詩を残している。中でも曹植は三国から南北朝時代を通じてもトップクラスの文学者である。 
  • 東晋から南北朝時代の南朝宋の時代の詩人、陶淵明は、隠逸詩人と呼ばれる。他の詩人たちが宮廷で詩を詠んだのに対して、農村で暮らしながら、自然や農村での生活を詠った、当時としては異質の詩人である。

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2017年2月5日日曜日

「中国百科 文化芸術」第12章文学 「豊子愷と漫画」

豊子愷と漫画

中国漫画の誕生
 「漫画」という日本の名称を中国に広めたのは、日本に来た青年教師豊子愷だった。 1921 年に 23 歳の豊子愷は上海から東京に私費留学。美術、 音楽、日本語を学び、竹久夢二に傾倒。帰国後美術教師をしつつ 25 年に『文学週報』 に抒情漫画を「子愷漫画」として発表。同年末『子愷漫画』 出版。それまでは風刺画、寓意画と言われていて、 1919 年に但杜宇の『国恥画譜』などがあったが漫画は日常生活を幅広くとらえて新鮮だった。


抗日の闘いに捧げた漫画

 1927 年、上海で張光宇、黄文農たちは漫画の名称をつけた会を結成。 28 年にその漫画会は大判 2 色刷の週刊『上海漫画』を創刊。多彩な漫画で上海漫画時代を開拓。 30 年までに 110 号出した。1934 年 9 月から 37 年 6 月まで上海で『時代漫画』『漫画生活』 など 19 種の漫画雑誌が創刊された。 36 年には、上海南京路の大新公司で豊子愷も参加した第1回全国漫画展覧会が関かれた日応募作品から 600 点が選ばれて出展、 9000人以上が見た。 ここから華君武、米谷など若い世代が育った。この漫画展は南京、蘇州、杭州などを巡回したが、 37 年、日中戦争勃発。広西省で展示中、日本軍機の爆撃で焼失。上海の漫画家は救亡漫画宣伝隊に加わり、南京、武漢と移動しつつ、抗日漫画 1000 点を描き、 100 囲の展示会を開いた。豊子愷も自宅が戦火で全焼、蔵書、画稿すべてを失い、家族と流浪の旅を続 けた。41 年貴州・遵義で豊子愷は失った漫画424 点を 38 日間で描き直した。恭君武は延安で、豊子盤、張光字は重慶で漫画展を聞いた。

戦後と文化大革命

 1945 年、戦争が終わり、薬君武は東北で、米谷らは上海で漫画を描き、豊子愷は台北や香港で個展を開き絵を売った。 49 年中華人民共和国成立。漫画家たちは全国誌『漫画』に作品を発表した。 60 年豊子愷は上海国画院校長となり、教務のかたわら「源氏物語」などを翻訳。 66 年の文化大革命は漫画家を追放、豊子愷も批判され強制労働下でひそかに「竹取物語」「伊勢物語」を訳した。 1975 年、癌で死亡。 78 年に名誉回復。 80 年 「源氏物語」出版。 2001 年『豊子愷漫画全集』全 9 巻刊行。



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2017年2月4日土曜日

「中国百科 文化芸術編」映画 21世紀に入って

21世紀に入って

大作映画時代
 21世紀になると中国は映画強国をめざして大作映画時代に入った。まさに一皮むけた感がある。
 製作、上映、配給を一体化する中国電影集団、長春電影集団、上海電影集団などが結成された。2001年の興収が9億元だったのに対して、2002年は張芸謀の「HERO英雄」が1億元の製作費で2億5000万元と空前の興収(映画館総収入)をあげた。



第五世代監督の商業映画への変身

 第五世代監督の商業映画への変身に世界は驚嘆した。それが中国映画史三度目の武侠古装映画流行を招いた。 張芸謀は「LOVERSJ「王妃の紋章」と続け、陳凱歌も「PROMISE プロミス」で応じた。喜劇の冯小剛も「女帝 エンペラー」で参加。アクション映画の世界は大スター、大題材、大製作費、大市場とこれまでにない様相を持った。香港、台湾などからの資本の流入大きく商業大作の撮影が可能となった。

興行収入増大

家族や仲間を描く生活リアリズム映画は健在。
 スパイ映画「風声」、妖怪映画「画皮」と新分野作品がヒットし、ホラー映画も出現した。
 喜劇映画では、

  • 2008年の冯小剛「狙った恋の落とし方。」が3億元、300万元で撮った寧浩の「クレイジー・ストーン~劣翠狂騒曲」が興収2300万元と意表をついた。2012年に喜劇俳優徐噂の正月映画「ロスト・イン・タイランド」が12億4000万元と大入りになって2010年中国公開のアメリカ映画「アバター」の最高興収13億2000万元に迫った。
陸川監督が2004年に「ココシリ」で密猟者と戦う男たちを描き、2011年に日本人俳優を起用して「南京!南京!」を撮って、2億間の興行収入。 張芸謀の文化大革命下の初恋物語「サンザシの樹の下で」は日本公開されたが、6億元かけた南京事件映画「金陵十三美人」は日本公開未定。 女優の徐静蕾が「トララの昇進日記」、趨薇が「私たちの逝ってしまった青春に」、蒋要魔が「空を見上げて」を監督した。また李玉は「ブッダ・マウンテン」で地震後の女性の心痛を、胡攻は「孔子の教え」を撮った。


主旋律映画 主旋律映画とは、ある一定の主題や基調となる考えで貫かれた映画などのこと。つまり、中国社会では中国共産党の『指導』が一つの基調となっている。そのために映画や文芸作品には、恰も音楽の中のベースとなる「調べ:旋律」のような一定の方向性や社会性がその基調に求められる。これを称して「主旋律映画」と呼ばれるようだ。 


私見
このような映画や演劇における主義主張は、何も中国に限ったことではなく、アメリカ映画のジョンウェインが活躍した西部劇などはもろに主旋律映画と思えるのだが・・。
  • 中国映画独特の主旋律映画では冯小剛が「戦場のレクイエム」で国内戦の激烈さを、「唐山大地震」で耐える家族を描いた。
  • 建国60年の「建国大業」、共産党創立90年の「建党偉業」と作られ、辛亥革命100年の「1911」はジャッキー・チェン主演100本目で総監督をした。霍建起が「愛のしるし」で共産党幹部瞿秋白の生死を恋愛映画タッチで描写した。
  • 無名の新人滕華弢の都市型恋愛映画「失恋33日」が3億5000万元と大ヒット。「孔雀。我が家の風景」でカメラマン顧長衛が文革後の家族を、侯味が「ジャスミンの花開く」で、上海3代の女性を措いて監督デビュー。陳凱歌は「花の生涯梅蘭芳」を、姜文は「さらば復讐の狼たちよ」で軍閥時代の非情を措いた。ポスト第六世代監督として王競、梁婷、主唱飛たちが登場。


中国映画100年

中国映画100年を迎えた2005年に巨大な中国電影博物館が北京に完成。また、中国映画のはじまりとなった「定軍山」も劇映画化された。中国映画は種類多彩、娯楽性強調、映画館系列化で、世紀末不振を克服。
2012年は製作700本、興収170億元と、前年比30.18%増の史上最高になった。興収の半分近くは外国映画で国産映画が映画館からはみ出る状況もあるが、映画の文化産業化の勢いは止まらない。




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2017年1月31日火曜日

「中国百科 文化・芸術」第10章文学 「漢詩の全盛期」

漢詩の全盛期

唐の文学上の時代区分
李白と社甫は、中国を代表する大詩人である。その 2 人が同時代に生きたということは、繁栄と混乱をあわせもつ激動の時代が、彼らを、そ して彼らの作品を作り上げたと言っても過言ではない。唐を文学の流れによる区分で初唐・盛唐・中唐・晩唐の 4 期に分ける方法がある。李白と社甫 が生きた時代を盛唐とするのは、 2 人への評価の高さを示すものである。但し盛唐には他に、自然を詠った詩の多い孟浩然、王維、辺境地帯の風土を詠んだ辺塞詩に特色を持つ高適、岑参、王昌齢といった詩人がいる。

李白

黄鶴楼
 「詩仙」と称され、 8 世紀に活躍した李白の生涯は不明な点が多い。若 い頃は道士修行や、侠客との交際など、放浪の生活だった。玄宗の時に 推薦により翰林供奉となるが、約 2 年で辞職。安史の乱の混乱期も生き 抜いたが、最期は月を取ろうとして長江に落ちたという伝説もある。 李白は七言絶句を得意とし、自由な発想、と豪快な表現を特徴とする。数多い名作のうち、『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』を紹介する。

故人西辞黄鶴楼 故人西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月下揚州 煙花三月揚州に下る
孤帆遠影碧空尽 孤帆の遠影碧空に尽き
唯見長江天際流 唯だ見る長江の天際に流るるを
目の前に情景が浮かぶような描写力とスピード感。李自の真骨頂である 。
李白が猿声を聞いた白帝城は長江の
泥水に囲まれて昔の風情は今いずこ?

杜甫

「詩聖」と称される社甫は、李白より 10 歳ほど年少。役人を志すもかなわず、仕官のため、生活のために人生の大半を放浪して過ごした杜甫の 作品には、失意と沈欝さがあふれている。中でも、彼は社会の矛盾を訴える詩を多く作る。日本では『春望』( 国破れて山河あり… ) が有名だが、ここでは晩年の名作、七言律詩『登高」の前半四句を示す。
風急天高猿嬬哀 風急に天高くして猿輔哀し
渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙白〈鳥飛び廻る
無辺落木語講下 無辺の落木は請請として下り
不尽長江滚滚来 不尽の長江は滾々として来る
同じ長江を詠いながら、李白との作品との違いは明白であろう。

韓愈と自居易

中唐になると韓愈や白居易など、官僚としても出世をした詩人が登場する。 文章家でもある韓愈は、その文章と同じく詩も非常に難解だが、細やかな表現が特徴である 。 韓愈のいわば弟子のような存在で、その作風を受け継ぐ詩人に孟郊、買島、李賀らがいる。特に 27 歳で亡くなった李賀は、怪奇な題材を好み、異様な雰囲気の作品で有名である。 白居易はその字の白楽天のほうが、日本では馴染みがあるだろう 。 白居易は韓愈とは異なり、平易な言葉を用いて作詩を行なった 。 玄宗と楊貴妃の悲劇を詠った『長恨歌』は、七言百二十句の長編である。
後宮佳麗三千人 後宮の佳麗三千人
三千寵愛在一身 三千の寵愛一身に在り
金屋粧成矯侍夜 金屋粧い成って矯夜に侍り
玉楼宴罷酔和春 玉楼宴罷みて酔いて春に和す
宮廷の華麗さと玄宗の楊貴妃への寵愛の深さが感じられるが、この後、安史の乱の勃発による 2 人の悲劇的な末路が詠われる 。 白居易の盟友に元稹、劉禹錫がおり、柳宗元も独自の詩風で知られる。


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「中国百科 文化・芸術」第10章文学 「現代中国の作家たち」

4-10.01 現代中国の作家たち

この節の表題の「現代中国の作家」というカテゴリで見た場合、最大の影響を与えた人物は魯迅を置いて他はない。

20世紀前半:革命と戦争の時代

  • 魯迅(1881~1936年)は、浙江省の古都、紹興の官僚の旧家に生まれた。少年期に生家は没落し、給費制の学校を経て日本へ留学した。はじめは医学を志したが、中国民衆の覚醒への道を求めて文学に転じた。
    1918年、口語体で書かれた中国初の短編小説『狂人日記』は、「人が人を食う」儒教イデオロギーに絡めとられた人間の、「子どもを救って…」という祈りで終わる。
    『阿Q正伝』では、日雇い農民の阿Qが精神勝利法(現実生活での敗北を心の中で理屈をつけ勝ったことにする思考法)を重ねるうちに、処刑されてしまう。また、数多くの雑文・雑感を発表し、時の権力と闘った。
    紹興の文化に根ざした散文『朝花夕拾』『野草』も奥深い魅力がある。
  • 四川省出身の巴金(1904~2005年)は五四運動の影響を受け、大地主の生家を離れた。
    その体験から、旧家の大家族制の下で苦悩する三兄弟を長編小説『家』に描いた。『寒夜』では、抗日戦期の重慶に生きる弱者の哀しみが胸に迫る。
    文革で他の作家と同じく迫害されたが、文革後、自らを単なる被害者ではなく加害者だとして、深い内省と批判を『随想録』(1978-1986)に綴り、文革博物館の建造もよびかけた。(1985年国立現代文化館)
    1977年には、中国作家協会主席も勤めている。
    激流三部曲: 家・春・秋
    愛情三部局: 霧・雨・電
  • 老舎(1899~1966年):満州旗人(清代の軍事社会凪織、旗に属する満州人)の父が戦死し貧しい家庭に育った。
    北京の人々を哀感漂う筆致で活写した『駱駝祥子』、『四世同堂』がある。中華人民共和国で人民芸術家と称されたが、文革で紅衛兵の暴行を受けた後、亡くなった。
  • 丁玲(1904~86年):『莎菲女士の日記』で愛と性、自我に切りこんだ。国民党に夫を処刑され自身も幽閉を受け、のち解放区へ脱出した。
    短編小説『霞村にいた時』は、慰安婦にされながらも中国のために密偵を果たした女性の、明日への一歩を見つめた作である。 
  • 苗族など水辺の民を措いた沈従文『辺城』、
  • 日本軍の中国東北地区侵略で故郷を追われた粛紅の『呼蘭河の物語』(注:呼蘭河:黒龍江省、松花工の支流)
  • 茅盾の壮大なリアリズムの長編『子夜』
  • 上海を措いた張愛玲『傾城の恋』
  • そして聞一多や朱日清の詩作も、民国期の秀作として見逃せない。
  • 解放区では超樹理『小二黒の結婚』が歓迎され、のちに人民文学のシンボルとなった。

20世紀後半の改革開放から21世紀へ

文学に強い抑圧がかかった50年代から70年代を経て、80年代には多様な作家の才能が花開いた。
  • 右派のレッテルを貼られて約20年間執筆の機会を奪われた王蒙は、人物の意識の流れに沿って時空を移動する手法で『胡蝶』に自己の政治的運命への内省を反映した。
  • 両親が政治に翻弄され幼少期から孤独だった残雪は、『黄泥街』などグロテスクで不条理な世界に読者を誘う。
  • 文革中に知識青年として農村で生活した韓少功の『爸爸爸』
  • 文革期社会への省察に満ちた王小波『黄金時代』、
  • 上海を活写する王安億『富萍』
  • 阎連科:『丁庄の夢』(エイズ問題を描いた)
  • 余華:『活きる』も読者を魅了する。
  • 劉賓雁『人妖の間』、
  • 陳桂棣・春桃『中国農民調査』など、ルポルタージュの成果も大きい。
  •  贾平凹など、農民出身の作家も活躍がめざましい。
  • 2012年ノーベル文学賞に輝いた莫言は、1955年に山東省高密の村に生まれた。飢餓と抑圧にさらされている農村から脱出するため解放軍に入隊し、創作を始めた。 『透明な赤いカブ』、『赤い高梁』(後に映画化)、『蛙鳴』など、「幻想的なリアリズムで民話と歴史、現代を紡ぐ」小説が評価されている。
  •  21世紀の若手作家では、ブロガーの韓寒や、ライトノベル作家の郭敬明、古典の素養も豊かな笛安などが活躍している。

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2017年1月28日土曜日

「中国百科攻略 文化芸術編」第11章映画 「中国映画の改革開放」

中国映画の改革開放

中国映画の復興が始まる
毛沢東が1976年9月9日に病死した。江青をはじめ文革で猛威をふるった四人組の逮捕とともに文化大革命が終息。中国映画の復興が始まった。江青たちの陰謀・罪悪の告発が行なわれる一方で映画人たちは農場から辺境から監獄から撮影所に戻ってきて名誉を回復された。

“傷痕映画”
1976年11月から1977年10月には上映禁止映画の90本が復活、日本映画など外国映画も上映され、のベ128億8000万人が映画を見た。映画作りが始まり、「演劇の杖を捨てろ」「現代の映画言語を創れ」という発言が映画を動かす。文化大革命の苦痛を描く“傷痕映画”と言われる作品が生まれた。
  • 日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」は2800回上映されて2700万人が見た。主演高倉健はこれより中国で人気が出る。
  • 1977年の四人組との戦いを描く「十月の風雲」、女優謝芳が復帰した「涙痕」や「巴山夜雨」などがある。
  • その代表作とも言えるのは建国後監督デビューした第三世代の謝晋監督の「天雲山物語」「牧馬人」「芙蓉鎮」だ。反右派闘争から文革までの20年、無実の罪の犠牲者を描き、迫害を告発して人々の涙を誘った。

中国映画最高の年
 1978年に思想解放の改革開放路線が打ち出され、1979年は中国映画最高の年となった。観客のベ293億1000万人、入場料収入20億元以上。まだテレビもなく映画は嬉しい娯楽となり生きる喜びとなった。

  • 生き別れとなった母子が戦場で再会する「戦場の花」や、
  • おびただしい犠牲が出る戦いの悲惨を描く「今宵星はまたたく」、
  • 兵士の愛情を描く「帰心矢の如し」、
  • 恵まれない医師夫妻の苦しみを訴える「人、中年に至る」などに感動した。
  • 76年の天安門事件を背景にバイオリニストの初恋を描いた呉天明、滕文冀共同監督の「生活の顫音」では建国以来初めてのキス・シーンを見せて観客をどきどきさせた。 
  • 寮の中で描く「鷹山恋」はファッションの華やかさで若者をひきつけた。
多種多様な作品
 1980年代に入ると、文学の映画化が盛んになって茅盾「真夜中」、老舎「茶館」と「賂舵の样子」、魯迅「傷逝」と「阿Q正伝」などが撮られた。

  • 第五世代を育てることになる呉天明は「人生」「古井戸」で農村青年の生き方をとらえ、
  • 女性監督黄蜀芹の「舞台女優」、張暖忻の「青春祭」、それに呉○(貝編+台)弓の「北京の想い出」、
  • 謝飛の「黒い雪の年」、胡柄榴の「郷音」などが文革で挫折した第四世代監督がリアリズムタッチで人間性を追及する手腕を見せた。
  • 喜劇映画「ピンぼけ家族」、スパイ映画「保密局の銃声」、武芸もの「少林寺」、SF映画「珊瑚島上の死光」や少女の自己主張をとらえた「紅い服の少女」と多種多様。
  • 1982年には三園連太郎が孫道臨と共演した日中合作映画「未完の対局」も撮影された。
  • 「慮山恋」に主演した張瑜のような一夜で超人気アイドルも生まれるような時代となった。
蒋介石も登場した
 労働者、農民、兵士のための映画というこれまでのワクから、なによりも人間らしさを描いてその苦悩と喜びの感情を掘り下げるようになった。
  • また歴史を描く「西安事件」では初めて蒋介石が登場。全面否定されていた国民党の指導者を毛沢東と対等の歴史人物として措くといった大変化も起こった。
  • 日中戦争の戦場を真正面からとらえた「血戦台児荘」では国民党司令官李宗仁の指揮と将兵の奮戦を見せた。
“改革開放”後の2008年までの30年間に4522本の劇映画が生まれた。
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「中国百科検定攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「文化大革命と映画界」

文化大革命と映画界

 文化大革命はここに掲げるように、映画界においても、その他色々の分野においてもあらゆるものを壊滅させた。これに対して、歴史的評価は依然として不完全なままの状態と言っていい。また、文化大革命の中で、日本にもたらされた「暴虐の嵐」の傷が癒えているわけではない。我々にとって、あの文化大革命はいったいなんだったのだろうという検証も忘れてはならない。
文芸の命を“革”す
 1966年5月16日、毛沢東が政権を奪い返す政治闘争のために発動した文化大革命によって映画界は壊滅する。映画女優だった毛沢東夫人・江青は映画界攻撃によって文革の成果をあげようとした。江青は66年2月に林彪の委託で上海で開かれた部隊文芸工作者座談会で建国以来「十七年の映画はすべて毒草である」ときめつけた。

文化大革命の非文化的狂乱

  • たとえば「舞台の姉妹」は「ブルジョアの個人奮闘を称賛。階級闘争を否定、30年代の映画を蘇らせるもの」と批判。
  • 66年5月には「十七年映画は反党反社会主義の毒草。錯誤路線を宣伝、反革命分子の復活。軍隊の古参幹部を醜悪化し、男女関係を描く。中間人物を描く」と攻撃。

 江青のこうした批判を根拠に映画人を否定しその地位を奪った。
  • 長春、北京、上海、すべての映画制作所は軍隊、労働者の“革命派’’に支配され、映画製作は中止、追及、闘争の場と化した。
  • 監督、脚本、俳優、映画人たちは“走資派”“反動的権威”“特務”としで仕事を奪われて吊るし上げられ、暴力、監禁、投獄、強制労働と迫害された。
  • 北京の映画大学は廃止、映画雑誌は全て廃刊、映画資料館のフイルム、資料は廃棄、十七年映画600余本の90%以上が“毒草”として上映禁止になり、1966年から72年まで「地雷戦」「地道戦」「南征北戦」の3本しか見ることはできなかった。

革命模範劇映画
 1970年代に入って、京劇やバレーの革命模範劇の舞台をそのまま撮影して革命模範劇映画ができた。
  • 革命京劇の「紅灯記」「智取威虎山」「沙家浜」「奇襲白虎団」「海港」、
  • 革命バレーの「紅色娘子軍」と「白毛女」「交響音楽〈沙家浜〉」である。
    8億の中国人は8本の革命模範劇映画だけを繰り返し見せられた。
    • また戦争映画などの再映画化もされて「渡江偵察記」や「南征北戦」など6本がカラー化された。“三突出”という英雄の中でも最も英雄的なものを描くという原則が正常な映画創作を壊した。

    文革劇映画
     さらに文革映画という劇映画が撮られた。74年春節に長春映画が「艶陽天」「青松嶺」「戦洪図」「火紅の年代」を一挙に公開した。長年、3本の戦争ものと8本の革命模範劇映画の繰り返し上映にあきていた大衆は劇映画に喜んだ。階級闘争の政治的道具として「創業」「春苗」「閃関的紅星」「決裂」など76年までに40本も撮った。強制労働農場などで働かされていた“反革命的”監督の謝晋や謝鉄麗、崔嵬たちが撮影所に呼び戻されて撮影を命じられたが、監督の意見などは政治的に無視された。

    文革の犠牲者たち
     こうした中で、上海映画では1000人のうち309人の芸術家、技術者が迫害されて16人が非正常な死に方をした。北京映画では800余人のうち500~600人が監禁、吊るし上げられ審査され、反革命として処分されたもの300人、迫害死したもの7人。長春映画では300人近い人たちが臨時強制収容所に不法監禁され、552人の芸術、技術管理部門幹部が寒村に追放された。
    • 女優の上官雲珠、超慧深などが自殺、
    • 劇作家で国歌の作詞者田漢、監督の鄭君里は獄死、
    • 蔡楚生は病院の廊下で惨死。
    • 監督の応雲衛は惨死、
    • 徐覇、迫害死、
    • 脚本家の海黙は殴殺。
    • 文化部副部長だった夏衍は8年の獄中で殴打され片目失明、片足不自由になった。
    • 二枚目スター趙丹は5年投獄、
    • 中国のガルボと言われた女優白楊も5年投獄。
    • 謝普監督が強制労働中に両親は自殺。2人の障害児も迫害された。 


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    2017年1月27日金曜日

    「中国百科攻略ノート 文化芸術編」 第11章映画 「無声映画からトーキーに」

    無声映画からトーキーに

    中国映画がトーキー映画に
     1930年、12万元出して明星影片が胡蝶主演で中国初のトーキー映画「歌女紅牡丹」を撮った。完全トーキーではなくデスクトーキー版で会話や音楽が聞こえるだけだが、中国映画もしゃべった。京劇世界の男女の愛の変遷を描き、人気女優胡蝶の声と「四郎探母」など京劇の名場面を聞かせた。
    • 本格的なトーキー映画は1934年の電通の応雲衛監督「若者の不運」で袁牧之と陳波児が共演、聶耳作曲の「卒業歌」が効果をあげた。

    人気スター阮玲玉の登場
     無声映画の人気スターが続々登場。そのトップは1910年生まれの阮玲玉だった。個人的生活を元夫に訴えられ、新聞で攻撃されて1935年3月8日に25歳で服毒自殺。ファンはついにその声を聞くことができなかったが葬儀には1万人も参列した。魯迅も一文を書いてその死を悼んだ。
    • 1927年に明星の「掛名的夫妻」でデビュー。
    • 28年に「白雲塔」で胡蝶と共演し、30年に聯華影業に移ってアメリカ帰りの孫喩監督の初めての脚本で撮った「故都春夢」で金焔と共演して人気上昇。それ以来、5年間に蔡楚生監督の「新女性」まで16作品に主演した。34年の「女神」で最高の演技を見せ、自殺した女優文霞がモデルの「新女性」で鄭君里と共演して女の怒りを表現。踏みにじられる女性から主張する女性まで演じた。

    胡蝶
     もう一人のスターは胡蝶。武侠映画「火焼紅蓮寺」に四集から出演して売れっ子となって、阮玲玉と人気を二分。
    • 1930年張石川のトーキー映画「歌女紅牡丹」で初めて美声を聞かせた。
    • 現実を描いた「狂流」に主演し、1935年、中国映画界を代表して外国に行った最初の女優となった。
    • 胡蝶はモスクワ映画祭に蔡楚生監督の「漁光曲」を持っていき中国映画に初の外国映画賞をもたらした。「漁光曲」は、漁師の姉弟が貧しさと闘いながら生きる姿を措いたリアリズム映画で“野良猫”と言われた王人美がりりしくて主題曲が流行、上海の映画館で84日間連続上映という新記録を作った
    趙丹
     男優では趙丹が二枚目スターの代表となった。1933年に明星に入社、「琵琶春怨」で映画主演、34年トーキー映画「女児経」でその声を聞かせた。労働者の男らしさを印象づけたのは金焔で、1935年の孫喩の「大いなる路」で、道路工事労働者の集団のリーダーを演じた。迷いつつも行動していく苦悩する知識人を演じて共感を広げたのは袁牧之で、許幸之監督の「風雲児女」は1931年9月18日に日本が引き起こした満州侵略を間接的に描いた。ラストの田漢作詞、聶耳作曲の「義勇軍行進曲」が抗日の呼びかけとなって響いた。1949年には中国の国歌となった。
    • 1937年、沈西苓の明るいが哀しい青春喜劇「十字路」で白楊と共演、軽妙に主題歌を歌った。
    • また袁牧之の「街角の天使」で“金色の声”と言われた少女歌手周歌と共演、上海の底辺に生きる青年像をユーモラスにきびしく演じて明日を感じさせた。 
    検閲
     国民党政府の検閲をくぐって暴力団の映画会社へのぶち壊しといった暴力行為にもさらされて映画人は生命がけで映画を撮影した。1937年には馬徐維邦、金山主演の「深夜の歌声」のように「オペラ座の怪人」を模した恐怖映画の形をとって圧政に抗し、人間復活を訴える作品も生まれた。


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    2017年1月26日木曜日

    「中国百科攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「戦時下の映画」

    戦時下の映画

    戦争は中国映画をこわす
    1937年7月7日、日中戦争が勃発、8月18日には上海にも戦火が及び中国映画の繁栄は消えた。
    • 明星は日本軍の砲火で破壊された。
    • 趙丹、白楊たちは11の抗日救国演劇隊に分かれ、抗日を宣伝しつつ武漢などに撤退、
    • 胡蝶、蔡楚生たちは香港へ避難、
    • 張石川たちは“孤島化”した上海の租界に残留と映画人たちはばらばらになった。
    • さらに39年、親善映画に協力しなかった明星は日本軍に放火されて本社も撮影所も全焼した。

    映画界
    中国映画界は.武漢・垂慶の国民党支配区、延安の抗日根拠地、“孤島”となった上海租界、日本占領区と分断。抗日のために国民党と共産党とが再び手を結び、文化協力も展開。国民党政府の軍事委員会政治部副部長に周恩来が就任して宣伝部門担当の同部第三庁の長に郭抹若が入った。 
    • 映画演劇部門は田漢が指導することになった。
    • この第三庁の下に中国電影製片廠が生まれて1938年8月武漢の陥落までに国防映画として史東山監督、舒绣文、魏鶴齢の「我らの土地を守れ」、応雲衛監督、袁牧之、陳波児の「八百壮士」などが撮られ映画館や移動映写隊で上映、人々を鼓舞した。
    • 武漢失陥後重慶に撤退した映画人は「勝利行進曲」「中華児女」「東亜之光」「日本間諜」「塞上風雲」などを作った。 
    • 周恩来の特命でオランダの映画監督ヨリス・イヴェンスからの映画器材を受け取った袁牧之は延安に入った。1938年にカメラマン呉印咸たちと延安電影団を結成、「延安と八路軍」などの記録映画を撮った。


    「火焼紅蓮寺」と国策会社
    • “孤島”となった上海では張石川が10年間上映禁止だった「火焼紅蓮寺」を取り戻して再上映した。曹禺の「雷雨」などを演出し、「西厢記」などを撮影した。
    • 1939年に卜万蒼監督が「木蘭従軍」を撮った。病父にかわり男装し外敵と戦う女性を新人女優・陳雲裳が演じて対日抵抗の意思を感じさせて85日間も連続上映された。
    • 「木蘭将軍」のあとを受けて再び古装映画が盛んになって「岳飛」「太平天国」「西施」「孔夫子」などが撮られ他.
    • 喜劇映画も活発で、漫画家葉浅予の漫画「王先生」が映画化された。1935年の「王先生の秘密」から始まったものが、「王先生の正月」などと続いて、40年までに「王先生食事難」など10本以上も出て最長のシリーズとなった。
    1941年、太平洋戦争勃発とともに上海の外国租界も日本が占領。10余あった映画会社は中華聯合に統合された。43年には日本と合同の国策会社、中華電影聯合が成立。
    • アへン戦争100年記念に林則徐の一代記のようで李香蘭も出演する「万世流芳」が撮られた。40年だけで67本中54本も古装映画が撮られた。 
    • 香港では50も大小映画会社があったが、広東語の娯楽もの中心だった。
    • 上海から来た蔡楚生らが、「孤島天国」「白雲故郷」などの抗日映画を撮り、40年の83本中40%を抗日映画が占めた。
    • 41年太平洋戦争勃発とともに香港は日本軍に占領され映画人はそこから脱出。女優胡蝶も日本側から協力を求められたが断り続けて抗日ゲリラの手引きでひそかに広州に入り、重慶に脱出した。

    満州映画協会設立
    満州国となった東北地区で1937年に満州映画協会が設立された。日本から監督の内田吐夢や木村荘十二たちも来た。45年まで李香蘭の「蜜月快事」「迎春花」や国策映画「壮士燭天」など100本の劇映画と190本前後の記録映画が製作された。

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    「中国百科攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画
    「戦後映画の復興と対立」

    戦後映画の復興と対立

    国民党政府下の接収

    日中戦争で勝利した中国には平和が訪れず内戦が始まった。重慶から来た国民党政府は、北平(北京)、上海の映画制作所を敵性映画産業として接収、時価100億元という映画制作拠点と資産を入手した。そこで撮影された国民党の官製映画は「忠義之家」、「天字第一号」、「聖城記」などで国民党特務やアメリカ聖職者の対日抵抗活動を賛美した。国民党政府は検閲を復活して1945年10月から48年9月までに162本の国産映画のうち48本がカットされた。また、米華友好通商航海条約によってアメリカ映画が氾濫、45年8月から49年5月までに1083本も輸入された。


    内戦下の映画
     上海に戻ってきた映画人たちも映画製作に取り組んだ。
    • 1947年2月に鄭君里たちは聯華新芸社を結成、史東山監督の「八千里雲と月」を発表。8年にわたる戦争下の苦難をリアルに描いて共感を広げた。
    • 続けて民間映画会社崑崙影業公司と聯華は合併、1947年に蔡楚生と鄭君里が共同監督で陶金、白楊の「春の河、東に流れる」を撮った。中国人の戦争体験を庶民の困難な生活と垂慶の退廃を対比して描いて3カ月も上映され70余万人が見た。
    • 1948年に沈浮監督の「万家灯火」は藍馬と上官雲珠で庶民一家の貧困生活を措き、
    • 同じ年に張楽平の人気漫画「三毛流浪記」を厳恭監督が映画化して浮浪児が上海の巷で大人たちに翻弄されていく悲喜劇を見せた。
    • 1949年の鄭君里監督の「からすとすずめ」はアパートに住む役人、教師、軍人などを通して社会縮図を描き現実を風刺した。これなどは検閲用と撮影用のシナリオを分けて検閲をくぐって撮影された。
    • 40年から5年間、新疆省ウルムチの監獄に捕らわれでいた趙丹が生還、「進かなる愛」「三人の女」で秦怡、黄宗英などと共演した。
    • 1946年に設立された文華映画では1947年のゴーリキーの「どん底」を翻案した佐臨監督の「夜店」や作家張愛玲が脚本・監督した「太太萬歳」などがある。
    • 1948年に代表的な芸術映画として高い評価を勝ち取った費穆監督の「田舎町の春」は戦後の小さな町の旧家での5人の男女の愛情の心理を描いたが切ない。
    • 茅盾原作で黄佐臨、石揮の「腐蝕」は特務に身を落としていく女性の内心を鋭くとらえた。また、石揮は「私の一生」を監督・主演して小人物の悲哀の生涯を措いた。

    東北映画制作所
    • 1945年8月に長春の旧満州映画協会をいち早く接収したのは延安から入った俳優の田方たちだった。
    • 1946年5月に長春を支配した東北民主聯軍が北への撤退とともに旧満映の膨大な器材と人員を黒龍江省興山に疎開。日本人技術者と家族も多数行動を共にした。
    • 1949年10月に東北映画制作所が興山で成立、ソ連から帰ってきた袁牧之が初代所長になった。
    • 一方、長春映画制作所では金山監督が1947年に「松花江のほとり」を張瑞芳主演で撮った。東北が日本に侵略されていく悲しみを松花江ほとりの一家の変遷を通して真正面からとらえたもので、その主題歌とともに悲痛さが広がった。
    • 興山の東北映画制作所では記録映画やニュース映画「民主東北」、アニメーションなどを撮った。

    新しい国づくりの中で

    国内戦争の息苦しい状況の中で映画は復興したが、中国の変革進歩か、旧体制維持かと対立した。
    監督や俳優は内戦と飢餓と暗黒の中で光を見出そうと庶民の人生と社会状況を見つめるニューリアリズム映画を生み出した。


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    2017年1月25日水曜日

    「中国百科攻略ノート・文化編」第11章映画 「第5世代の誕生」

    中国映画の新しい波    ・・・・・ 第5世代の誕生

    北京電影学院82年組
     文化大革命が終わって1978年に北京電影学院でも入試が行なわれ1万人に及ぶ応募者から選ばれた入学者は、1982年には監督、演技、撮影、‘録音、美術系159人が82年組として卒業した。個人の希望ではなく組織分配といって電影学院から各地の撮影所や各機関に配属された。
     中央からもっとも遠く離れた南寧の広西映画制作所に配属されたのが監督の張軍剣、撮影の張芸謀、美術の何群たちだ。彼らはここで青年撮影班を結成して作るべき作品を模索した。

    • 監督の張軍钊、撮影の張芸謀、美術の何群たちは、1984年に「一人と八人」で、中国映画の新しい波を起こす。これは日中戦争下、護送される無実の罪 の指導員と8人の犯罪者が日本軍と戦うという衝撃作。結末は悲劇的だが、ハッピーエンド版に修正されたのが審査を通った。日本公開は元版だった。30歳代でこれまでにない映画を撮ろうという気概と力にあふれていた。 
    • 北京から同制作所に招かれた陳凱歌も「黄色い大地」で監督デビュー、黄土地帯の貧農の娘と民謡採集に来た八路軍兵士によって困窮生活とそこからの解放願望をとらえた。張芸謀の撮影は黄土を耕す労働、民謡にこめる感情、土煙をあげて躍動する腰鼓の群衆に眠っていた中国とそれを目覚めさせるような強さを画面に刻んだ。解放願望も黄河の激流 に呑みこまれて救世主はいない現実を措く。
    彼らは中国映画の新しい波を巻き起こした新世代という意味で第五世代と言われるようになった。

    それぞれ個性を発揮
    • 田壮壮は「狩り場の掟」と「盗馬賊」で少数民族の現実を見きわめ、
    • 呉子牛は「喋血黒谷」で軍事映画を新しくし「晩鐘」で敗戦後の日本軍と八路軍兵士との戦争の後始末のちがいを描く。
    • 夏剛は「再見のあとで」のように都会の愛を探す。
    • 学院出身でない西安映画制作所の黄建新は「黒砲事件」で将棋の駒をめぐる騒動に工場の官僚的組織の保守頑迷さと知識層の弱さを描き、
    • 同じ周暁文は「追跡者」で刑事の犯人追跡の執念に犯罪映画を新しく見せた。
    • 珠江映画制作所の張沢嶋は「絶響」で文化大革命で迫害された音楽教師とその息子の悲痛を描いた。 
    • 女性監督では李少紅は農村での女性の地位の低さを「血祭りの朝」で告発し、
    • 胡玖は「戦争を遠く離れて」で戦争の傷痕を持つ父と息子との埋められない世代格差をとらえ、 
    • 劉苗苗は「吉祥村の日々」で自然の厳しさの中での子どもの不幸を描き、 
    • 彰小蓮は「女人故事」で農村女性の自立を応援する。
    • 1978年に張芸謀は莫言原作の「紅いコーリャン」で監督デビューした。強烈な色彩感覚と伝奇的発想、鞏俐を主演女優に発掘してベルリン国際映画祭グランプリを受賞、第五世代の存在と勢いを世界に示した。


    いわゆる第五世代とは
    第五世代と言われる青年監督は長春、北京、上海といった大制作所からではなく広西、西安、珠江などの地方制作所出身である。

    張芸謀の父は国民党将校という“黒い人物”だったが、彼以外の父は映画監督など幹部級で子供時代は幸せであった。それが文化大革命で暗転、両親は迫害され、少年時代に家庭を失い、学業を失って下放させられ、軍隊に入るなどして苦労してきた。信じるものを失って自分で生きる独立心が不屈さと反逆心となった。だからハッピーエンドではなく悲劇的結末を極彩色で措き、中国の貧困を直視していく。演劇的ではなく、映画としての新しい画面追求がまたとない映像を生んだ。ただし、彼らは才能を表すことで成功したが興行的にはふるわなかった。

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    「中国百科攻略ノート」第4部第11章映画 「上海映画の黄金時代」をアップしました

    上海映画の黄金時代

    映画の都上海

    上海は映画の都となった。東洋のハリウッドと言われるほど映画会社、映画館が集中していた。「中国電影年鑑1934」によると映画会社は1922年に設立の明星、1925年の天一、1929年の聯華の大手3社を含めて48社、監督は張石川から若手の察楚生まで85人、俳優は阮玲玉、胡蝶、超丹、など199人、脚本家20人。映画館は魯迅がよく通った静安寺格の座席3000の大光明大戯院をはじめとして37館、そのうち19館がハリウッド映画専門館で、1933年に309本、34年に344本、「ターザン」「街の灯」「ミッキーマウス」「グランドホテル」などを公開した。それでも中国映画は各社で撮られ、映画黄金時代といえる活気となった。

    左翼映画運動おこる

    1933年2月、中国映画の進歩的映画人は中国電影文化協会を成立、鄭正秋、胡蝶、孫瑜ら21人が執行委員に選ばれた。 外に侵略、内に圧迫の中で一致して映画を作る。芸術は宣伝、映画は宣伝の芸術ということで夏衍たちが映画小組を結成した。 この年、左翼映画が豊作。
    • 明星の「狂流」「前程」「圧迫」「春(はるご)蚕」(すべて夏衍脚本)「鉄板紅涙録」「女性の呐喚」。
    • 芸華「民族生存」(田漢)。聯華「母性之光」(田漠)、「脂粉市場」(夏衍)。
    トーキー映画も反帝反封建色を明確にし、階級闘争と社会暗黒の暴露、婦人問題を社会背景にして中国を考察した。左翼映画は観客の印象を一新させ、33年は“中国映画年”と呼ばれた。こうした中で映画は「眼にアイスクリーム、心にソファ」を与えるような快楽であるというブルジョア派と、映画は中国の現実を見つめ、暴くというリアリズム派との論争も起こった。

    • 明星は1932~33年に15作を出した。1932年、上海事変後、経営危機に陥った明星は左翼系演劇人夏衍たちに協力を求めた。彼らは社会を描くリアリズム映画の脚本、監督で支援した。
    • 聯華は阮玲玉主演で33年「おもちゃ」(孫喩)、35年「女神」(呉永剛)、「新女性」(蔡楚生)とつづいた。
    • また34年の黎莉莉の「スポーツ女王」(孫喩)が明るくて、蔡楚生の36年の「さまよえる子羊」は中国の孤児を見すえた。
    • 新華では呉永剛、金焔の「壮志凌雲」が敵と戦う若者の壮快さを見せた。
    まさに左翼映画運動ともいえる勢いで5年間に70本以上の作品が撮影された。

    官憲による弾圧
    こうした動きに国民党政府の検閲は暴走する。1930年に映画検査法を制定した南京の国民党政府は三民主義に違反するものを取り締まるという条項によって階級闘争を鼓吹したり、反日的傾向の作品にハサミを入れた。芸華の岳楓の「中国海の怒潮」は1600メートルもカットされ、芸華は暴徒に襲われて破壊された。映画館に脅迫状が送りつけられてきて恐怖の報酬を受けることになった。
    • 夏衍らは外圧によって明星を除名され1934年に共産党系の電通に移る。
    • 電通は許幸之の「風雲児女」や応雲衛で蓑牧之、陳波児共演「若者の不運」など4本を作って中断。「若者の不運」のラストの主人公の処刑シーンは検閲でカットされた。のちに毛沢東夫人となる江青は藍東という名の女優としてここに所属していた。
    1935年は多難な年となった。
    • 田漢が逮捕投獄され、
    • 阮玲玉が自殺し、
    • 夏衍たちを指導した共産党の瞿秋白が銃殺され、
    • 鄭正秋が病死した。
    • 作曲家聶耳は亡命してソ連に行く途中日本の海で溺死した。
    • 夏衍も国民党官憲に追われ日本に潜入した。
    • 電通は弾圧で映画制作中止に。

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    2017年1月18日水曜日

    「中国百科攻略ノート」 映画  90年代の映画

    90年代の映画

      各映画制作所
     1990年段階で、中国の主な映画制作所には、伝統のある長春、北京、上海各映画制作所のほか、下記のような会社がある。
    • 解放軍の八一映画制作所
    • 北京電影学院付属の青年映画制作所
    • 北京児童映画制作所
    • 西安映画
    • 成都にある峨眉映画
    • 南寧の広西映画
    • 長沙の潚湘映画
    • 広東の珠江映画
    • 福州の福建映画
    • 深圳影業公司
    • フフホトの内蒙古映画
    • ウルムチの天山映画
    • 昆明の雲南民族映画
    • アニメーションの上海美術映画制作所などがある。

    歴史映画
     主旋律映画と言われる歴史事実を描く映画の現代史ものが1989年に長春映画の「開国大典」から始まって、「重慶談判」「決戦之後」「七・七事変」と李前寛・萧桂雲夫妻が共同監督した。香港返還に合わせて謝晋監督も1億元の製作資金を集めて「阿片戦争」を1997年に完成させた。 
    文化大革命を扱った映画 歴史として直接、文化大革命の悲劇を自らの体験や肉親、友人、知人の体験として描いた。
    謝晋が「芙蓉鎮」で措いた。
    このあと陳凱歌が「子供たちの王様」で農村に下放されて教師をする青年に、
    「さらば、わが愛~覇王別姫」で2人の京劇役者の半世紀にわたる葛藤に、
    田壮壮が「青い凧」で一家の母の歴史に、
    張芸謀が「活きる」で娘の死にとらえた。
    俳優姜文も監督デビュー作「太陽の少年」にあの時代の中学生群像を登場させた。
    いずれも自分や家族や友人に襲いかかってきた文化大革命の記憶を痛みとして刻みつけた。

    「山の郵便配達」
     陳凱歌たちと北京電影学院同期生の第五世代で、美術監督をしてきた霍建起が妻・思蕪の脚本の「勝者」で1995年に監督デビュー。99年に潚湘映画で撮った「山の郵便配達」が中国国内で上映されなかったのに、日本公開でヒットして中国の話題となった。

    外国映画
     95年以降、アメリカの10本の大作を輸入できるようになった。「逃亡者」をトップとして98年の「タイタニック」のヒットでアメリカ映画は観客の心をつかんだ。




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    2017年1月11日水曜日

    「中国百科攻略ノート」  文化・芸術  文学上の日中交流

    「中国百科」文学上の日中交流


    文化交流の歴史

    文学の交流の歴史の前に、日本と中国の間には非常に長い文化の交流があった。
    勿論交流とはいえ基本的には中国から日本への一方的な流れであり、この長い交流の中で文学の交流が生まれてくるのであった。
     このことについては、非常に多くのことが語られているが、
    「海外との日本文化・日本文学交流史展望」と題する、伊井春樹氏(国文学研究資料館)の論文が見つかったので、以下に紹介させて頂く。

    中国から日本に文字がもたらされたのは三世紀から五世紀の頃、6世紀になると仏教も伝来し、それまでの自然崇拝として形成されていた神道と融合しながら、新しい文化が日本列島に根づいてきた。その中国の文字を用い、日本語を表現しようと、古代の人々はさまざま工夫をし、本格的な日本文学と称してもよい作品が生まれたのが、『古事記』712年であった。神話としての日本国土の生成から、7世紀の第33代推古天皇までが語られる。ただ、文字は中国の、いわゆる漢字を用いての日本語の表記であった。それが八世紀になって漢字から日本独自の文字、かな文字が発明され、やがて日本の文字による独自の文学が次々と生み出されてくることになる。10世紀初頭の韻文の『古今集』、散文では『土佐日記』があり、これ以降については今さら述べるまでもないことで あろう。 19世紀の江戸時代末までに、日本ではどれほどの文学作品が生まれたのか、 その数は膨大であろうし、伝来しないで消失したのも多いはずである。千年以上もの間、中国の影響は大きく、仏典以外にも多様な本や思想、が輸入され、人々に読まれるとともに、日本の文学に取り込まれ、日本式に翻訳もされていった。

     これ以外にも、多くの特筆すべき事柄がある。
     例えば、魏志倭人伝に書かれていた交流、遣隋使、遣唐使、鑑真和上が果たした役割はとてつもなく大きいことを知っておくべきだろう。魏志倭人伝のころは日本はまだその当時は国家という形をなしていない時代であったろう。中国では既に、統一国家が作られ、壊れたり、覇を争ったりしながら抗争を続けていた時代であったろう。文化レベルの違いは雲泥の差といってよかった時に、朝貢という形にしろ大陸の文化を吸収しようとしていたことは、感動的といえる。
     また遣隋使、遣唐使は本当に命を懸けて多くの人々が海を渡り、新しい先端の文化を吸収しようとあくなき挑戦を続けていた。
     鑑真和上に至っては、自身は中国で既に高い地位に上り詰めていたにも拘らず、日本のため、5回も渡航に挑戦し、6回目にして漸く、日本の地に辿りつき、日本の仏教界に骨をうずめた人もいる。

    文学交流の歴史
     以上のような文化交流の非常に長い差歴史を背景に、本題の文学における日中の交流に入っていくことになるが、文学における日中の交流は近代以前と以後で大きく性格を異にする。
    明治以前は、交流は基本的に中国の文学を日本が摂取する形でなされた。以下日本の文学に見る中国の影響を対比的に列挙したい。
    日本最古の歌集『万葉集』の歌には中国の古典詩の影響を少なからず見出すことができる。

    • 山上憶良の「貧窮問答歌」・・・陶淵明の「詠貧士」などの詩句を階まえた表現がある。
    • 人麿や大伴旅人、家持父子の歌・・・六朝の詩人の影響が指摘されている。
    • 平安朝の歌人、詩人・・・白楽天の『白氏文集』は最高の愛読書であった。
    • 漢詩人菅原道真だけでなく、紫式部、清少納言の作品にも白楽天の詩が反映している。
    • 江戸時代には菅茶山、頼山陽、齋藤拙堂など多くの優れた漢詩文の書き手が輩出し、日本における中国古典文学受容のピークを形成した。
    • 明治の森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、樋口一葉、永井荷風、石川啄木、芥川龍之介、佐藤春夫なども中国の古典から学んだものが少なくない。

    近現代文学における日中交流

     1877年、明治の日本に最初にやってきた中国の文学者は黄遵憲で、彼は日本の漢学者との筆談を通じて日本の近代化と日本が摂取した中国文化を理解し、帰国後それを紹介する『日本雑事詩』を表した。この著作は日本の1つ1つの事象を200首の七言絶句で表現した興味深いものである。

    日清戦争後日本にやってきた中国の留学生達

     魯迅、周作人、郭抹若、郁達夫、田漠をはじめとする多くの中国人学生が日本に来て、当初は医学や経済学などの実学を学んだが、いずれも文学に進路を変えた。こうして「中国文壇の大半は日本留学生によって占められる」(郭沫若)という状況が出現した。郁達夫、田漢は留学中、佐藤春夫と交流を持ち、郁は特にその影響を受けたが、日中戦争が始まって以後、佐藤が中国侵略に傾斜したため、決別した。
    この中で近現代の日中の文学の交流でもっとも大きな役割を果たしたのは、魯迅である。
     以下に魯迅について詳しく触れてみよう。

     魯迅は弟の周作人とともに多くの日本人作家、森鴎外、夏目漱石、武者小路実篤、有島武郎、芥川龍之介、菊池寛などの作品を翻訳している。
     また彼は漱石の随筆「クレイグ先生」を翻訳しただけでなく、それに触発されて回想記『藤野先生』を書いた。また1921年芥川龍之介の中国訪問に合わせて『羅生門』等を翻訳して紹介し、芥川は北京訪問時に自作の魯迅訳を読んでいる。
     魯迅の『ある小さな出来事』は芥川の『蜜柑』に触発されて書かれた作品と考えられている。
     魯迅の作品は日本に少なからぬ読者を持った。中でも『故郷』と『藤野先生』は第2次世界大戦後日本の国語教科書に採用され、日中の交流と民族の問題を考える好個の教材となっている
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    2017年1月9日月曜日

    「中国百科攻略ノート」 映画 「中国映画の黎明」

    中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編

    中国映画の黎明を追加しました。

     中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
     1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。


    劇映画と教育映画
     1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
     1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
     1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
     張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。


    商業映画化が進行
     1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。

    古装映画と武侠映画
     1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
     明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。


    「中国映画界の誕生」に係る補足説明は ☜ こちらをクリックしてください

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    「中国百科攻略ノート」 言語 「中国語とは何か」

    中国語とは何か

    中国語の持つ特徴
    中国語とは55の少数民族を抱える多重民族国家の中で、もっとも大きな集団である漢族の話す言葉と定義することができる。
     中国語とチベット語は、同系統の言語で、シナ・チベット(Sino-Tibetan)と呼ばれる語群に属する。


      シナ・チベット語族は中国語とチベット語を話す語族に分岐する。
    •   シナ語群(Sinitic) ・・・ シナ語系(中国語はこの語系に属する)と カム・タイ語系に分岐
    •   チベット・ビルマ語群(Tibeto-Burman)に分かれる(派生する)。
      そして中国語とは、狭義には、後述するように中華人民共和国が定めた民族共通語のことをいう。(簡体字という他らしく定めた略字体を用いる。)

    言語類型論から見た中国語
     言語類型論からいうと
    中国語は典型的な孤立語であり、文中において各語が孤立している。

    • 日本語のテニヲハのような膠着成分である助詞も乏しいし、
    • 語自体に品詞を表す標識も存在しない。
    • 中国語の大きな特徴として声調言語(252頁参照)であることも重要である。
    一方、述語Vと目的語Oの位置関係から見ると大きくvo型とov型の2つに分類される。
    • 英語はvo言語の特徴をかなり強〈持つ言語であり、
    • 日本語は典型的なov言語である。
      しかし、中国語はvo型ではあるが、その他から考え中国語は両者の中間的な性格を示す。 
      言語類型地理論から見た中国語
       世界の言語を広〈眺めてみると、同系統の言語であるか否かとともに、地理的に近い位置にあるか否かが言語の性格を決めるという指摘がある。
      少数民族の言語現在の中国には55の少数民族がいるとされる。

      • 少数民族とはいえチワン族のように1700万もの人がいるもの、
      • 回族のように言語・形質ともに漢族に溶け込んでいるものもある。
      • 明らかにシナ・チベット語族に属さないワイグル語を話すウイグル族
      • 朝鮮語を話す朝鮮族、モンゴル語を話すモンゴル族なども含まれる。

      • 中国は多重民族国家なのである。この地域には系統の定かでない言語もなお存在し、今後の調査研究によって見方を変えなければならない可能性もある。しかし、漢族がもっとも大きな集団であることは間違いのないことである。中国語とは、漢族の話す言葉と定義することができる。中国語で“汉语"と言われる所以である。


      「中国語とは何か」の詳しい説明 ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください
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      「中国百科攻略ノート」 文学 「変文、元雑劇と明清の戯曲」 

      中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 10 文学

      変文、元雑劇と明清の戯曲 を追加しました。
      中国古典文学は、「詩」と「文」(文語文)に分けられる。 「詩」と「文」
      • 「詩は『詩経』の四言詩から、漢代の歌話「楽府」の五言詩、七言詩が生まれ、唐代を迎える。宋代には詩余とも言う「詞」(楽曲に後から歌詞をつけたもの)が栄えた。
      • 「文」は、漢代宮廷文学の「辞賦」から発展して四文字、六文字で韻も踏む対句形式の「骈文」が栄えたが、唐代の韓愈や柳宗元は形式的な「骈文」を退け、自然な文体である「古文」を追求した。
      小説では、
      南北朝時代には奇怪な事を記す『捜神記』などの「志怪」小説、唐代には「伝奇」小説や『李娃伝』などの才子佳人小説が栄えた。

      「文」に対して、
      民衆の文芸には口語体に近い「白話」がある。

      • この系統には唐代の民衆むけの仏教布教の語り物「変文」(20世紀に敦煙で発見)がある。
      • 宋代以降、都市が発達して演劇が栄えた。
      • 元代から明代にかけて完成されたという『西遊記』、
      • 明代の『牡丹亭還魂記』、
      • 清代の『桃花扇』が有名である。
      白話の芸能は、明代の「四大奇書」、清代の『紅楼夢』『儒林外史』などの白話小説に結実する。

      文言より低い「俗」とされた白話は、20世紀西洋文学と出会い新しい文体に練り上げられた。こうして生まれた新い、口語の文学が、中華人民共和国の共通話である


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      「中国百科攻略ノート」 言語 「漢字」についてアップしました

      中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 9 言語編

      第4部第9章第10節 漢字 を追加しました。

      本教科書では、以下の3つの側面から漢字を説明している。

      • 漢字の構造
        世界に類を見ない表記法である漢字の最大の特徴は、新しい事態を表す文字の創出システムをそれ自体が持つ点である。つまり、漢字は意味や音の構成要素を組み合わせ、新しい文字を創造するシステムを内蔵している。しかもその構成要素を次々継承させていく機能を持っているということである。
      • 表語文字
         漢字は表意文字といわれるが、そればかりではなく、一字一字が一つ一つのことば(単語)をあらわしている。これを「表語文字」とよぶ。従って漢字を「表意文字」と言う人があるがそれは不適当である。漢字は「意」のみをあらわしているのではなく、「語」をあらわしている。
      • 漢字のリンク作用
         漢字が異なる地域や、民族その他もろもろの概念をリンクするのである。広大な地域や民族を包含する中国のもつ一体感に漢字が果たした役割は大きい。これは漢字が表音文字でないことと無関係ではない。文法、語彙と比べて発音の変化は急激で体系的に起こる。ある地域の言語音の変化が文字に反映するなら、音の変化は言語の変化にそのままつながることになる。
         もし言語に変化が起これば、そこに一体感は消失してしまう。
      しかし、これだけでは何か分かったようで分からない感じで、「腑に落ちた感じ」がしない。そこでもう少し漢字の持つ特徴や漢字はいかなるものかなどを加えて頭の整理をしたい。
      •  白川静氏は「字統」(平凡社)の中で、漢字について以下のように述べている。少し長いが下記に引用する。

      漢字の構造は、その文字体系の成立した時代、今から三千数百年以前の、当時の時の生活と思惟のしかたを、そのままに反映している。あるいはまた、それより以前の、文字がまだなかったいわゆる無文字時代の生活と思惟の仕方が、その時点において文字に集約され、その一貫した形象化の原則に従って、体系的に表現されている。漢字の歴史は、その無文字時代の意識にまで、遡ることができるものといえよう。文字の発明が、人類の文明への最初のステップであったとするならば、漢字は文明以前の原始文化を文明への最初の段階において形象化し、文字としての体系を与えたものということができる。そして歴史時代に入るとともに、文字はその文化の最も重要な担持者であった。文字はつねに過去の文化の継承者であり、またそれを通じて、新しい創造への源泉であった。その機能は、現在においても、すこしも変ることはない。

      • また、藤堂明保氏は「漢字源」の中で、漢字について以下のように述べている。これも少し長いが引用する。
      中国および中国周辺の諸国に伝えられた「漢語」を書きあらわすため、紀元前一三世紀に出現して今日まで用いられている文字が、漢字である。 漢字は、意味をもつ言語(単語または、単語素 ) をあらわした文字であるから、表語文字Word Characterと呼ばれ、一般には表意文字であるといわれる。そして日本の仮名や、ローマ字のような単音・音素だけをあらわす文字と違い、官kuan、良 liangのように、意味をもつ音節全体を一字であらわしている。また、エジプトの象形文字は、フェニキアからギリシアへと伝わる間に、もとの意味を離れて単なる表音文字に転化したが、漢語はその発音と意味を少しずつ変化させたものの、漢字自体は3000年の歴史を生き抜いて、今日まで伝わったため、その本質をいまだに保存している。


      • さらに、落合淳思氏は、その著書「漢字の成り立ち」(筑摩書房)の中で、以下のように述べている。漢字源の中の記述とほぼ同じであるが、敢えてこれも同様に参照する。
      漢字もそうした発明品のひとつである。しかも、古代文明の文字としては唯一、現在も使われているという特徴がある。 漢字よりも古い文字として、メソポタミア文明の楔形文字や古代エジプトのヒエログリフ、あるいはインダス文明の印章文字が知られているが、いずれも今では一般に使用されていない。ヒエログリフについては、一部が形部を変化させてアルファベットになったものの、発音のみを表す文字として使われたため、個々の文字が持っていた意味は失われてしまった。
      これで、色々の文字体系の中で、漢字の持つ位置、意義と漢字とはそもそも何ぞやという質問には大づかみながら答えられていると思う。



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