戦後映画の復興と対立
国民党政府下の接収
日中戦争で勝利した中国には平和が訪れず内戦が始まった。重慶から来た国民党政府は、北平(北京)、上海の映画制作所を敵性映画産業として接収、時価100億元という映画制作拠点と資産を入手した。そこで撮影された国民党の官製映画は「忠義之家」、「天字第一号」、「聖城記」などで国民党特務やアメリカ聖職者の対日抵抗活動を賛美した。国民党政府は検閲を復活して1945年10月から48年9月までに162本の国産映画のうち48本がカットされた。また、米華友好通商航海条約によってアメリカ映画が氾濫、45年8月から49年5月までに1083本も輸入された。
内戦下の映画
上海に戻ってきた映画人たちも映画製作に取り組んだ。
東北映画制作所
新しい国づくりの中で
国内戦争の息苦しい状況の中で映画は復興したが、中国の変革進歩か、旧体制維持かと対立した。
監督や俳優は内戦と飢餓と暗黒の中で光を見出そうと庶民の人生と社会状況を見つめるニューリアリズム映画を生み出した。
日中戦争で勝利した中国には平和が訪れず内戦が始まった。重慶から来た国民党政府は、北平(北京)、上海の映画制作所を敵性映画産業として接収、時価100億元という映画制作拠点と資産を入手した。そこで撮影された国民党の官製映画は「忠義之家」、「天字第一号」、「聖城記」などで国民党特務やアメリカ聖職者の対日抵抗活動を賛美した。国民党政府は検閲を復活して1945年10月から48年9月までに162本の国産映画のうち48本がカットされた。また、米華友好通商航海条約によってアメリカ映画が氾濫、45年8月から49年5月までに1083本も輸入された。
内戦下の映画
上海に戻ってきた映画人たちも映画製作に取り組んだ。
- 1947年2月に鄭君里たちは聯華新芸社を結成、史東山監督の「八千里雲と月」を発表。8年にわたる戦争下の苦難をリアルに描いて共感を広げた。
- 続けて民間映画会社崑崙影業公司と聯華は合併、1947年に蔡楚生と鄭君里が共同監督で陶金、白楊の「春の河、東に流れる」を撮った。中国人の戦争体験を庶民の困難な生活と垂慶の退廃を対比して描いて3カ月も上映され70余万人が見た。
- 1948年に沈浮監督の「万家灯火」は藍馬と上官雲珠で庶民一家の貧困生活を措き、
- 同じ年に張楽平の人気漫画「三毛流浪記」を厳恭監督が映画化して浮浪児が上海の巷で大人たちに翻弄されていく悲喜劇を見せた。
- 1949年の鄭君里監督の「からすとすずめ」はアパートに住む役人、教師、軍人などを通して社会縮図を描き現実を風刺した。これなどは検閲用と撮影用のシナリオを分けて検閲をくぐって撮影された。
- 40年から5年間、新疆省ウルムチの監獄に捕らわれでいた趙丹が生還、「進かなる愛」「三人の女」で秦怡、黄宗英などと共演した。
- 1946年に設立された文華映画では1947年のゴーリキーの「どん底」を翻案した佐臨監督の「夜店」や作家張愛玲が脚本・監督した「太太萬歳」などがある。
- 1948年に代表的な芸術映画として高い評価を勝ち取った費穆監督の「田舎町の春」は戦後の小さな町の旧家での5人の男女の愛情の心理を描いたが切ない。
- 茅盾原作で黄佐臨、石揮の「腐蝕」は特務に身を落としていく女性の内心を鋭くとらえた。また、石揮は「私の一生」を監督・主演して小人物の悲哀の生涯を措いた。
東北映画制作所
- 1945年8月に長春の旧満州映画協会をいち早く接収したのは延安から入った俳優の田方たちだった。
- 1946年5月に長春を支配した東北民主聯軍が北への撤退とともに旧満映の膨大な器材と人員を黒龍江省興山に疎開。日本人技術者と家族も多数行動を共にした。
- 1949年10月に東北映画制作所が興山で成立、ソ連から帰ってきた袁牧之が初代所長になった。
- 一方、長春映画制作所では金山監督が1947年に「松花江のほとり」を張瑞芳主演で撮った。東北が日本に侵略されていく悲しみを松花江ほとりの一家の変遷を通して真正面からとらえたもので、その主題歌とともに悲痛さが広がった。
- 興山の東北映画制作所では記録映画やニュース映画「民主東北」、アニメーションなどを撮った。
新しい国づくりの中で
国内戦争の息苦しい状況の中で映画は復興したが、中国の変革進歩か、旧体制維持かと対立した。
監督や俳優は内戦と飢餓と暗黒の中で光を見出そうと庶民の人生と社会状況を見つめるニューリアリズム映画を生み出した。
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