中国映画の改革開放
中国映画の復興が始まる
毛沢東が1976年9月9日に病死した。江青をはじめ文革で猛威をふるった四人組の逮捕とともに文化大革命が終息。中国映画の復興が始まった。江青たちの陰謀・罪悪の告発が行なわれる一方で映画人たちは農場から辺境から監獄から撮影所に戻ってきて名誉を回復された。
“傷痕映画”
1976年11月から1977年10月には上映禁止映画の90本が復活、日本映画など外国映画も上映され、のベ128億8000万人が映画を見た。映画作りが始まり、「演劇の杖を捨てろ」「現代の映画言語を創れ」という発言が映画を動かす。文化大革命の苦痛を描く“傷痕映画”と言われる作品が生まれた。
中国映画最高の年
1978年に思想解放の改革開放路線が打ち出され、1979年は中国映画最高の年となった。観客のベ293億1000万人、入場料収入20億元以上。まだテレビもなく映画は嬉しい娯楽となり生きる喜びとなった。
多種多様な作品毛沢東が1976年9月9日に病死した。江青をはじめ文革で猛威をふるった四人組の逮捕とともに文化大革命が終息。中国映画の復興が始まった。江青たちの陰謀・罪悪の告発が行なわれる一方で映画人たちは農場から辺境から監獄から撮影所に戻ってきて名誉を回復された。
“傷痕映画”
1976年11月から1977年10月には上映禁止映画の90本が復活、日本映画など外国映画も上映され、のベ128億8000万人が映画を見た。映画作りが始まり、「演劇の杖を捨てろ」「現代の映画言語を創れ」という発言が映画を動かす。文化大革命の苦痛を描く“傷痕映画”と言われる作品が生まれた。
- 日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」は2800回上映されて2700万人が見た。主演高倉健はこれより中国で人気が出る。
- 1977年の四人組との戦いを描く「十月の風雲」、女優謝芳が復帰した「涙痕」や「巴山夜雨」などがある。
- その代表作とも言えるのは建国後監督デビューした第三世代の謝晋監督の「天雲山物語」「牧馬人」「芙蓉鎮」だ。反右派闘争から文革までの20年、無実の罪の犠牲者を描き、迫害を告発して人々の涙を誘った。
中国映画最高の年
1978年に思想解放の改革開放路線が打ち出され、1979年は中国映画最高の年となった。観客のベ293億1000万人、入場料収入20億元以上。まだテレビもなく映画は嬉しい娯楽となり生きる喜びとなった。
- 生き別れとなった母子が戦場で再会する「戦場の花」や、
- おびただしい犠牲が出る戦いの悲惨を描く「今宵星はまたたく」、
- 兵士の愛情を描く「帰心矢の如し」、
- 恵まれない医師夫妻の苦しみを訴える「人、中年に至る」などに感動した。
- 76年の天安門事件を背景にバイオリニストの初恋を描いた呉天明、滕文冀共同監督の「生活の顫音」では建国以来初めてのキス・シーンを見せて観客をどきどきさせた。
- 寮の中で描く「鷹山恋」はファッションの華やかさで若者をひきつけた。
1980年代に入ると、文学の映画化が盛んになって茅盾「真夜中」、老舎「茶館」と「賂舵の样子」、魯迅「傷逝」と「阿Q正伝」などが撮られた。
- 第五世代を育てることになる呉天明は「人生」「古井戸」で農村青年の生き方をとらえ、
- 女性監督黄蜀芹の「舞台女優」、張暖忻の「青春祭」、それに呉○(貝編+台)弓の「北京の想い出」、
- 謝飛の「黒い雪の年」、胡柄榴の「郷音」などが文革で挫折した第四世代監督がリアリズムタッチで人間性を追及する手腕を見せた。
- 喜劇映画「ピンぼけ家族」、スパイ映画「保密局の銃声」、武芸もの「少林寺」、SF映画「珊瑚島上の死光」や少女の自己主張をとらえた「紅い服の少女」と多種多様。
- 1982年には三園連太郎が孫道臨と共演した日中合作映画「未完の対局」も撮影された。
- 「慮山恋」に主演した張瑜のような一夜で超人気アイドルも生まれるような時代となった。
労働者、農民、兵士のための映画というこれまでのワクから、なによりも人間らしさを描いてその苦悩と喜びの感情を掘り下げるようになった。
- また歴史を描く「西安事件」では初めて蒋介石が登場。全面否定されていた国民党の指導者を毛沢東と対等の歴史人物として措くといった大変化も起こった。
- 日中戦争の戦場を真正面からとらえた「血戦台児荘」では国民党司令官李宗仁の指揮と将兵の奮戦を見せた。
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