「中国百科」文学上の日中交流
文化交流の歴史
文学の交流の歴史の前に、日本と中国の間には非常に長い文化の交流があった。
勿論交流とはいえ基本的には中国から日本への一方的な流れであり、この長い交流の中で文学の交流が生まれてくるのであった。
このことについては、非常に多くのことが語られているが、
「海外との日本文化・日本文学交流史展望」と題する、伊井春樹氏(国文学研究資料館)の論文が見つかったので、以下に紹介させて頂く。
中国から日本に文字がもたらされたのは三世紀から五世紀の頃、6世紀になると仏教も伝来し、それまでの自然崇拝として形成されていた神道と融合しながら、新しい文化が日本列島に根づいてきた。その中国の文字を用い、日本語を表現しようと、古代の人々はさまざま工夫をし、本格的な日本文学と称してもよい作品が生まれたのが、『古事記』712年であった。神話としての日本国土の生成から、7世紀の第33代推古天皇までが語られる。ただ、文字は中国の、いわゆる漢字を用いての日本語の表記であった。それが八世紀になって漢字から日本独自の文字、かな文字が発明され、やがて日本の文字による独自の文学が次々と生み出されてくることになる。10世紀初頭の韻文の『古今集』、散文では『土佐日記』があり、これ以降については今さら述べるまでもないことで あろう。 19世紀の江戸時代末までに、日本ではどれほどの文学作品が生まれたのか、 その数は膨大であろうし、伝来しないで消失したのも多いはずである。千年以上もの間、中国の影響は大きく、仏典以外にも多様な本や思想、が輸入され、人々に読まれるとともに、日本の文学に取り込まれ、日本式に翻訳もされていった。
これ以外にも、多くの特筆すべき事柄がある。
例えば、魏志倭人伝に書かれていた交流、遣隋使、遣唐使、鑑真和上が果たした役割はとてつもなく大きいことを知っておくべきだろう。魏志倭人伝のころは日本はまだその当時は国家という形をなしていない時代であったろう。中国では既に、統一国家が作られ、壊れたり、覇を争ったりしながら抗争を続けていた時代であったろう。文化レベルの違いは雲泥の差といってよかった時に、朝貢という形にしろ大陸の文化を吸収しようとしていたことは、感動的といえる。
また遣隋使、遣唐使は本当に命を懸けて多くの人々が海を渡り、新しい先端の文化を吸収しようとあくなき挑戦を続けていた。
鑑真和上に至っては、自身は中国で既に高い地位に上り詰めていたにも拘らず、日本のため、5回も渡航に挑戦し、6回目にして漸く、日本の地に辿りつき、日本の仏教界に骨をうずめた人もいる。
文学交流の歴史
以上のような文化交流の非常に長い差歴史を背景に、本題の文学における日中の交流に入っていくことになるが、文学における日中の交流は近代以前と以後で大きく性格を異にする。
明治以前は、交流は基本的に中国の文学を日本が摂取する形でなされた。以下日本の文学に見る中国の影響を対比的に列挙したい。
日本最古の歌集『万葉集』の歌には中国の古典詩の影響を少なからず見出すことができる。
- 山上憶良の「貧窮問答歌」・・・陶淵明の「詠貧士」などの詩句を階まえた表現がある。
- 人麿や大伴旅人、家持父子の歌・・・六朝の詩人の影響が指摘されている。
- 平安朝の歌人、詩人・・・白楽天の『白氏文集』は最高の愛読書であった。
- 漢詩人菅原道真だけでなく、紫式部、清少納言の作品にも白楽天の詩が反映している。
- 江戸時代には菅茶山、頼山陽、齋藤拙堂など多くの優れた漢詩文の書き手が輩出し、日本における中国古典文学受容のピークを形成した。
- 明治の森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、樋口一葉、永井荷風、石川啄木、芥川龍之介、佐藤春夫なども中国の古典から学んだものが少なくない。
近現代文学における日中交流
1877年、明治の日本に最初にやってきた中国の文学者は黄遵憲で、彼は日本の漢学者との筆談を通じて日本の近代化と日本が摂取した中国文化を理解し、帰国後それを紹介する『日本雑事詩』を表した。この著作は日本の1つ1つの事象を200首の七言絶句で表現した興味深いものである。
日清戦争後日本にやってきた中国の留学生達
魯迅、周作人、郭抹若、郁達夫、田漠をはじめとする多くの中国人学生が日本に来て、当初は医学や経済学などの実学を学んだが、いずれも文学に進路を変えた。こうして「中国文壇の大半は日本留学生によって占められる」(郭沫若)という状況が出現した。郁達夫、田漢は留学中、佐藤春夫と交流を持ち、郁は特にその影響を受けたが、日中戦争が始まって以後、佐藤が中国侵略に傾斜したため、決別した。
この中で近現代の日中の文学の交流でもっとも大きな役割を果たしたのは、魯迅である。
以下に魯迅について詳しく触れてみよう。
魯迅は弟の周作人とともに多くの日本人作家、森鴎外、夏目漱石、武者小路実篤、有島武郎、芥川龍之介、菊池寛などの作品を翻訳している。
また彼は漱石の随筆「クレイグ先生」を翻訳しただけでなく、それに触発されて回想記『藤野先生』を書いた。また1921年芥川龍之介の中国訪問に合わせて『羅生門』等を翻訳して紹介し、芥川は北京訪問時に自作の魯迅訳を読んでいる。
魯迅の『ある小さな出来事』は芥川の『蜜柑』に触発されて書かれた作品と考えられている。
魯迅の作品は日本に少なからぬ読者を持った。中でも『故郷』と『藤野先生』は第2次世界大戦後日本の国語教科書に採用され、日中の交流と民族の問題を考える好個の教材となっている
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