2017年1月27日金曜日

「中国百科攻略ノート 文化芸術編」 第11章映画 「無声映画からトーキーに」

無声映画からトーキーに

中国映画がトーキー映画に
 1930年、12万元出して明星影片が胡蝶主演で中国初のトーキー映画「歌女紅牡丹」を撮った。完全トーキーではなくデスクトーキー版で会話や音楽が聞こえるだけだが、中国映画もしゃべった。京劇世界の男女の愛の変遷を描き、人気女優胡蝶の声と「四郎探母」など京劇の名場面を聞かせた。
  • 本格的なトーキー映画は1934年の電通の応雲衛監督「若者の不運」で袁牧之と陳波児が共演、聶耳作曲の「卒業歌」が効果をあげた。

人気スター阮玲玉の登場
 無声映画の人気スターが続々登場。そのトップは1910年生まれの阮玲玉だった。個人的生活を元夫に訴えられ、新聞で攻撃されて1935年3月8日に25歳で服毒自殺。ファンはついにその声を聞くことができなかったが葬儀には1万人も参列した。魯迅も一文を書いてその死を悼んだ。
  • 1927年に明星の「掛名的夫妻」でデビュー。
  • 28年に「白雲塔」で胡蝶と共演し、30年に聯華影業に移ってアメリカ帰りの孫喩監督の初めての脚本で撮った「故都春夢」で金焔と共演して人気上昇。それ以来、5年間に蔡楚生監督の「新女性」まで16作品に主演した。34年の「女神」で最高の演技を見せ、自殺した女優文霞がモデルの「新女性」で鄭君里と共演して女の怒りを表現。踏みにじられる女性から主張する女性まで演じた。

胡蝶
 もう一人のスターは胡蝶。武侠映画「火焼紅蓮寺」に四集から出演して売れっ子となって、阮玲玉と人気を二分。
  • 1930年張石川のトーキー映画「歌女紅牡丹」で初めて美声を聞かせた。
  • 現実を描いた「狂流」に主演し、1935年、中国映画界を代表して外国に行った最初の女優となった。
  • 胡蝶はモスクワ映画祭に蔡楚生監督の「漁光曲」を持っていき中国映画に初の外国映画賞をもたらした。「漁光曲」は、漁師の姉弟が貧しさと闘いながら生きる姿を措いたリアリズム映画で“野良猫”と言われた王人美がりりしくて主題曲が流行、上海の映画館で84日間連続上映という新記録を作った
趙丹
 男優では趙丹が二枚目スターの代表となった。1933年に明星に入社、「琵琶春怨」で映画主演、34年トーキー映画「女児経」でその声を聞かせた。労働者の男らしさを印象づけたのは金焔で、1935年の孫喩の「大いなる路」で、道路工事労働者の集団のリーダーを演じた。迷いつつも行動していく苦悩する知識人を演じて共感を広げたのは袁牧之で、許幸之監督の「風雲児女」は1931年9月18日に日本が引き起こした満州侵略を間接的に描いた。ラストの田漢作詞、聶耳作曲の「義勇軍行進曲」が抗日の呼びかけとなって響いた。1949年には中国の国歌となった。
  • 1937年、沈西苓の明るいが哀しい青春喜劇「十字路」で白楊と共演、軽妙に主題歌を歌った。
  • また袁牧之の「街角の天使」で“金色の声”と言われた少女歌手周歌と共演、上海の底辺に生きる青年像をユーモラスにきびしく演じて明日を感じさせた。 
検閲
 国民党政府の検閲をくぐって暴力団の映画会社へのぶち壊しといった暴力行為にもさらされて映画人は生命がけで映画を撮影した。1937年には馬徐維邦、金山主演の「深夜の歌声」のように「オペラ座の怪人」を模した恐怖映画の形をとって圧政に抗し、人間復活を訴える作品も生まれた。


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