中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編
中国映画の黎明を追加しました。中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。
劇映画と教育映画
1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。
商業映画化が進行
1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。
古装映画と武侠映画
1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。
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