現代文学をめぐる「運動」と「制度」の狭間の苦闘
中国現代文学は、激動する各時代において中国社会が直面した課題との熾烈な闘いの中で生まれた。その意味で、その時代の文学の「対抗軸」を考えることで「文学運動」と「文学制度」の狭間でもまれ続けてきた姿が浮かび上がる。
伝統文化・古典文学からの脱却を目指して
近代文学が、その封建的遺制から抜け出し、強肉弱食の世界に投げ出された中国社会に対峙して最初に直面した最大の壁は、1000年以上も続いた強固な封建的風土との闘いであった。それは文学云々の問題ではなく、社会の根底まで深く根ざした社会の後進性であった。
欧米列強そして日本の侵略に抗して
1920~30年代にかけて欧米列強そして日本の中国侵略がエスカレートしていくと、これに対する抵抗が文学的課題になっていく。
対抗軸としての「政治」から「創作自由」への苦闘
中華人民共和国が成立すると、毛沢東「文芸講話」の内容こそが目指すべき新しい中国文学(「人民文学」)の指針とされる。特殊な環境下での文芸政策が全国的に普遍化された。また、作家は中国作家協会に所属しなければならないという作家の組織化も進められた。こうした「文学制度」は、作家の生活保障という側面も存在したが、文芸思想を統制していく役割も担った。このように新しい国づくりに新しい息吹が感じられなければならないにも拘らず、社会や人々の意識は遅れた社会の中で飢えと苦しみにのた打ち回らなければならなかった。これも社会の後進性が重くのしかかった。
商業主義との拮抗と中国文学の行方は?
まさしく遅れた社会を取り戻すためには、実に大きな犠牲を払わなければならなかった。中国の人々は、段階的な手順を踏むことなく、「市場原理社会」というパンドラの箱を開けてしまった。
伝統文化・古典文学からの脱却を目指して
近代文学が、その封建的遺制から抜け出し、強肉弱食の世界に投げ出された中国社会に対峙して最初に直面した最大の壁は、1000年以上も続いた強固な封建的風土との闘いであった。それは文学云々の問題ではなく、社会の根底まで深く根ざした社会の後進性であった。
- 1910年代後半には「五四新文化運動」が巻き起こり、「科学」と「民主」の普及が叫ばれた。
- 文学領域では、胡適「文学改良審議」・陳独秀「文学革命論」(ともに1917年)が、文語定型体により高踏的世界を措く古典文学からの脱却を主張した。
- 魯迅は口語体小説『狂人日記』(1918年)を書き、封建的イデオロギーを批判した。
- 1920年代に入ると、「文学研究会」や「創造社」をはじめとする文学団体も結成されて、「新文学」は定着していく。都市部を中心に、「革命文学」や「モダニズム文学」の運動も隆盛を迎える。
欧米列強そして日本の侵略に抗して
1920~30年代にかけて欧米列強そして日本の中国侵略がエスカレートしていくと、これに対する抵抗が文学的課題になっていく。
- 1930年には魯迅も指導的役割を発揮した「左翼作家連盟」が結成され、国民党系文学者への批判や、文字が読めないような人々をも視野に入れた「文芸大衆化」運動を展開した。
- 満州事変(1931年)以降、日本の中国侵略が本格化すると「抗戦文学」がスローガンとなり、前線や農村に赴いて宣伝活動に従事する作家たちも多かった。
- 共産党根拠地・延安では、1942年、文芸座談会が開催され、毛沢東が「現在必要な文学とは何か」をめぐって講演を行なう。後に整理されて「文芸講話」(1943年公表)と呼ばれる。抗戦下の農村という特殊な環境に基づく文芸政策だったため、「文学は工農兵(労働者・農民・兵士)に服務する」という教育・宣伝作用を極度に重視し、文学を政治的基準から評価する傾向が強かった。
対抗軸としての「政治」から「創作自由」への苦闘
中華人民共和国が成立すると、毛沢東「文芸講話」の内容こそが目指すべき新しい中国文学(「人民文学」)の指針とされる。特殊な環境下での文芸政策が全国的に普遍化された。また、作家は中国作家協会に所属しなければならないという作家の組織化も進められた。こうした「文学制度」は、作家の生活保障という側面も存在したが、文芸思想を統制していく役割も担った。このように新しい国づくりに新しい息吹が感じられなければならないにも拘らず、社会や人々の意識は遅れた社会の中で飢えと苦しみにのた打ち回らなければならなかった。これも社会の後進性が重くのしかかった。
- こうした状況に最初に異議申し立てをしたのが詩人・文学理論家の胡風「三十万言意見書」で、「完璧な共産主義世界観がなければ創作してはならない」ことを求めていると批判した。だが、胡風は1955年、「反革命罪」で投獄されてしまう。
- その後、文革までの期間は、この「文学制度」は基本的に機能し、作家は抑圧状況に置かれた。
- 文革後、建国以来の「文学制度」に対する見直しの動向も進み、1985年、「創作自由」が提唱される。
- 作家・知識人たちは創作や社会的発言を通じて、中国社会における民主主義を拡張していったと言えるだろう。
商業主義との拮抗と中国文学の行方は?
まさしく遅れた社会を取り戻すためには、実に大きな犠牲を払わなければならなかった。中国の人々は、段階的な手順を踏むことなく、「市場原理社会」というパンドラの箱を開けてしまった。
- 1990年代から21世紀に至ると、中国社会は市場経済の全面展開に基づく高度経済成長を遂げ、市場原理がすべてを貫く市場社会を出現させていく。
- 高度情報化社会の登場とも相まって文学領域にも商業主義が蔓延し、「純文学の危機」が叫ばれたりもする。
- 作家・知識人たちは「人文精神論争」「『新左派対新自由主義』論争」と称される言説を積み重ねながら、商業主義と括抗する中国文学の未来を切り開こうと試みている。
中国百科検定攻略「第4部 文化・芸術・風俗習慣」のホームページに戻ります。
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