2017年1月25日水曜日

「中国百科攻略ノート・文化編」第11章映画 「第5世代の誕生」

中国映画の新しい波    ・・・・・ 第5世代の誕生

北京電影学院82年組
 文化大革命が終わって1978年に北京電影学院でも入試が行なわれ1万人に及ぶ応募者から選ばれた入学者は、1982年には監督、演技、撮影、‘録音、美術系159人が82年組として卒業した。個人の希望ではなく組織分配といって電影学院から各地の撮影所や各機関に配属された。
 中央からもっとも遠く離れた南寧の広西映画制作所に配属されたのが監督の張軍剣、撮影の張芸謀、美術の何群たちだ。彼らはここで青年撮影班を結成して作るべき作品を模索した。

  • 監督の張軍钊、撮影の張芸謀、美術の何群たちは、1984年に「一人と八人」で、中国映画の新しい波を起こす。これは日中戦争下、護送される無実の罪 の指導員と8人の犯罪者が日本軍と戦うという衝撃作。結末は悲劇的だが、ハッピーエンド版に修正されたのが審査を通った。日本公開は元版だった。30歳代でこれまでにない映画を撮ろうという気概と力にあふれていた。 
  • 北京から同制作所に招かれた陳凱歌も「黄色い大地」で監督デビュー、黄土地帯の貧農の娘と民謡採集に来た八路軍兵士によって困窮生活とそこからの解放願望をとらえた。張芸謀の撮影は黄土を耕す労働、民謡にこめる感情、土煙をあげて躍動する腰鼓の群衆に眠っていた中国とそれを目覚めさせるような強さを画面に刻んだ。解放願望も黄河の激流 に呑みこまれて救世主はいない現実を措く。
彼らは中国映画の新しい波を巻き起こした新世代という意味で第五世代と言われるようになった。

それぞれ個性を発揮
  • 田壮壮は「狩り場の掟」と「盗馬賊」で少数民族の現実を見きわめ、
  • 呉子牛は「喋血黒谷」で軍事映画を新しくし「晩鐘」で敗戦後の日本軍と八路軍兵士との戦争の後始末のちがいを描く。
  • 夏剛は「再見のあとで」のように都会の愛を探す。
  • 学院出身でない西安映画制作所の黄建新は「黒砲事件」で将棋の駒をめぐる騒動に工場の官僚的組織の保守頑迷さと知識層の弱さを描き、
  • 同じ周暁文は「追跡者」で刑事の犯人追跡の執念に犯罪映画を新しく見せた。
  • 珠江映画制作所の張沢嶋は「絶響」で文化大革命で迫害された音楽教師とその息子の悲痛を描いた。 
  • 女性監督では李少紅は農村での女性の地位の低さを「血祭りの朝」で告発し、
  • 胡玖は「戦争を遠く離れて」で戦争の傷痕を持つ父と息子との埋められない世代格差をとらえ、 
  • 劉苗苗は「吉祥村の日々」で自然の厳しさの中での子どもの不幸を描き、 
  • 彰小蓮は「女人故事」で農村女性の自立を応援する。
  • 1978年に張芸謀は莫言原作の「紅いコーリャン」で監督デビューした。強烈な色彩感覚と伝奇的発想、鞏俐を主演女優に発掘してベルリン国際映画祭グランプリを受賞、第五世代の存在と勢いを世界に示した。


いわゆる第五世代とは
第五世代と言われる青年監督は長春、北京、上海といった大制作所からではなく広西、西安、珠江などの地方制作所出身である。

張芸謀の父は国民党将校という“黒い人物”だったが、彼以外の父は映画監督など幹部級で子供時代は幸せであった。それが文化大革命で暗転、両親は迫害され、少年時代に家庭を失い、学業を失って下放させられ、軍隊に入るなどして苦労してきた。信じるものを失って自分で生きる独立心が不屈さと反逆心となった。だからハッピーエンドではなく悲劇的結末を極彩色で措き、中国の貧困を直視していく。演劇的ではなく、映画としての新しい画面追求がまたとない映像を生んだ。ただし、彼らは才能を表すことで成功したが興行的にはふるわなかった。

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