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2017年6月1日木曜日

「中国百科攻略ノート」 映画 「中国映画の黎明」

中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編

中国映画の黎明を追加しました。

 中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
 1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。


劇映画と教育映画
 1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
 1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
 1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
 張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。


商業映画化が進行
 1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。

古装映画と武侠映画
 1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
 明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。


「中国映画界の誕生」に係る補足説明は ☜ こちらをクリックしてください

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2017年1月25日水曜日

「中国百科攻略ノート」第4部第11章映画 「上海映画の黄金時代」をアップしました

上海映画の黄金時代

映画の都上海

上海は映画の都となった。東洋のハリウッドと言われるほど映画会社、映画館が集中していた。「中国電影年鑑1934」によると映画会社は1922年に設立の明星、1925年の天一、1929年の聯華の大手3社を含めて48社、監督は張石川から若手の察楚生まで85人、俳優は阮玲玉、胡蝶、超丹、など199人、脚本家20人。映画館は魯迅がよく通った静安寺格の座席3000の大光明大戯院をはじめとして37館、そのうち19館がハリウッド映画専門館で、1933年に309本、34年に344本、「ターザン」「街の灯」「ミッキーマウス」「グランドホテル」などを公開した。それでも中国映画は各社で撮られ、映画黄金時代といえる活気となった。

左翼映画運動おこる

1933年2月、中国映画の進歩的映画人は中国電影文化協会を成立、鄭正秋、胡蝶、孫瑜ら21人が執行委員に選ばれた。 外に侵略、内に圧迫の中で一致して映画を作る。芸術は宣伝、映画は宣伝の芸術ということで夏衍たちが映画小組を結成した。 この年、左翼映画が豊作。
  • 明星の「狂流」「前程」「圧迫」「春(はるご)蚕」(すべて夏衍脚本)「鉄板紅涙録」「女性の呐喚」。
  • 芸華「民族生存」(田漢)。聯華「母性之光」(田漠)、「脂粉市場」(夏衍)。
トーキー映画も反帝反封建色を明確にし、階級闘争と社会暗黒の暴露、婦人問題を社会背景にして中国を考察した。左翼映画は観客の印象を一新させ、33年は“中国映画年”と呼ばれた。こうした中で映画は「眼にアイスクリーム、心にソファ」を与えるような快楽であるというブルジョア派と、映画は中国の現実を見つめ、暴くというリアリズム派との論争も起こった。

  • 明星は1932~33年に15作を出した。1932年、上海事変後、経営危機に陥った明星は左翼系演劇人夏衍たちに協力を求めた。彼らは社会を描くリアリズム映画の脚本、監督で支援した。
  • 聯華は阮玲玉主演で33年「おもちゃ」(孫喩)、35年「女神」(呉永剛)、「新女性」(蔡楚生)とつづいた。
  • また34年の黎莉莉の「スポーツ女王」(孫喩)が明るくて、蔡楚生の36年の「さまよえる子羊」は中国の孤児を見すえた。
  • 新華では呉永剛、金焔の「壮志凌雲」が敵と戦う若者の壮快さを見せた。
まさに左翼映画運動ともいえる勢いで5年間に70本以上の作品が撮影された。

官憲による弾圧
こうした動きに国民党政府の検閲は暴走する。1930年に映画検査法を制定した南京の国民党政府は三民主義に違反するものを取り締まるという条項によって階級闘争を鼓吹したり、反日的傾向の作品にハサミを入れた。芸華の岳楓の「中国海の怒潮」は1600メートルもカットされ、芸華は暴徒に襲われて破壊された。映画館に脅迫状が送りつけられてきて恐怖の報酬を受けることになった。
  • 夏衍らは外圧によって明星を除名され1934年に共産党系の電通に移る。
  • 電通は許幸之の「風雲児女」や応雲衛で蓑牧之、陳波児共演「若者の不運」など4本を作って中断。「若者の不運」のラストの主人公の処刑シーンは検閲でカットされた。のちに毛沢東夫人となる江青は藍東という名の女優としてここに所属していた。
1935年は多難な年となった。
  • 田漢が逮捕投獄され、
  • 阮玲玉が自殺し、
  • 夏衍たちを指導した共産党の瞿秋白が銃殺され、
  • 鄭正秋が病死した。
  • 作曲家聶耳は亡命してソ連に行く途中日本の海で溺死した。
  • 夏衍も国民党官憲に追われ日本に潜入した。
  • 電通は弾圧で映画制作中止に。

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2017年1月9日月曜日

「中国百科攻略ノート」 映画 「中国映画の黎明」

中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編

中国映画の黎明を追加しました。

 中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
 1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。


劇映画と教育映画
 1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
 1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
 1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
 張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。


商業映画化が進行
 1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。

古装映画と武侠映画
 1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
 明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。


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