2017年1月26日木曜日

「中国百科攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「戦時下の映画」

戦時下の映画

戦争は中国映画をこわす
1937年7月7日、日中戦争が勃発、8月18日には上海にも戦火が及び中国映画の繁栄は消えた。
  • 明星は日本軍の砲火で破壊された。
  • 趙丹、白楊たちは11の抗日救国演劇隊に分かれ、抗日を宣伝しつつ武漢などに撤退、
  • 胡蝶、蔡楚生たちは香港へ避難、
  • 張石川たちは“孤島化”した上海の租界に残留と映画人たちはばらばらになった。
  • さらに39年、親善映画に協力しなかった明星は日本軍に放火されて本社も撮影所も全焼した。

映画界
中国映画界は.武漢・垂慶の国民党支配区、延安の抗日根拠地、“孤島”となった上海租界、日本占領区と分断。抗日のために国民党と共産党とが再び手を結び、文化協力も展開。国民党政府の軍事委員会政治部副部長に周恩来が就任して宣伝部門担当の同部第三庁の長に郭抹若が入った。 
  • 映画演劇部門は田漢が指導することになった。
  • この第三庁の下に中国電影製片廠が生まれて1938年8月武漢の陥落までに国防映画として史東山監督、舒绣文、魏鶴齢の「我らの土地を守れ」、応雲衛監督、袁牧之、陳波児の「八百壮士」などが撮られ映画館や移動映写隊で上映、人々を鼓舞した。
  • 武漢失陥後重慶に撤退した映画人は「勝利行進曲」「中華児女」「東亜之光」「日本間諜」「塞上風雲」などを作った。 
  • 周恩来の特命でオランダの映画監督ヨリス・イヴェンスからの映画器材を受け取った袁牧之は延安に入った。1938年にカメラマン呉印咸たちと延安電影団を結成、「延安と八路軍」などの記録映画を撮った。


「火焼紅蓮寺」と国策会社
  • “孤島”となった上海では張石川が10年間上映禁止だった「火焼紅蓮寺」を取り戻して再上映した。曹禺の「雷雨」などを演出し、「西厢記」などを撮影した。
  • 1939年に卜万蒼監督が「木蘭従軍」を撮った。病父にかわり男装し外敵と戦う女性を新人女優・陳雲裳が演じて対日抵抗の意思を感じさせて85日間も連続上映された。
  • 「木蘭将軍」のあとを受けて再び古装映画が盛んになって「岳飛」「太平天国」「西施」「孔夫子」などが撮られ他.
  • 喜劇映画も活発で、漫画家葉浅予の漫画「王先生」が映画化された。1935年の「王先生の秘密」から始まったものが、「王先生の正月」などと続いて、40年までに「王先生食事難」など10本以上も出て最長のシリーズとなった。
1941年、太平洋戦争勃発とともに上海の外国租界も日本が占領。10余あった映画会社は中華聯合に統合された。43年には日本と合同の国策会社、中華電影聯合が成立。
  • アへン戦争100年記念に林則徐の一代記のようで李香蘭も出演する「万世流芳」が撮られた。40年だけで67本中54本も古装映画が撮られた。 
  • 香港では50も大小映画会社があったが、広東語の娯楽もの中心だった。
  • 上海から来た蔡楚生らが、「孤島天国」「白雲故郷」などの抗日映画を撮り、40年の83本中40%を抗日映画が占めた。
  • 41年太平洋戦争勃発とともに香港は日本軍に占領され映画人はそこから脱出。女優胡蝶も日本側から協力を求められたが断り続けて抗日ゲリラの手引きでひそかに広州に入り、重慶に脱出した。

満州映画協会設立
満州国となった東北地区で1937年に満州映画協会が設立された。日本から監督の内田吐夢や木村荘十二たちも来た。45年まで李香蘭の「蜜月快事」「迎春花」や国策映画「壮士燭天」など100本の劇映画と190本前後の記録映画が製作された。

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