2017年1月28日土曜日

「中国百科検定攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「文化大革命と映画界」

文化大革命と映画界

 文化大革命はここに掲げるように、映画界においても、その他色々の分野においてもあらゆるものを壊滅させた。これに対して、歴史的評価は依然として不完全なままの状態と言っていい。また、文化大革命の中で、日本にもたらされた「暴虐の嵐」の傷が癒えているわけではない。我々にとって、あの文化大革命はいったいなんだったのだろうという検証も忘れてはならない。
文芸の命を“革”す
 1966年5月16日、毛沢東が政権を奪い返す政治闘争のために発動した文化大革命によって映画界は壊滅する。映画女優だった毛沢東夫人・江青は映画界攻撃によって文革の成果をあげようとした。江青は66年2月に林彪の委託で上海で開かれた部隊文芸工作者座談会で建国以来「十七年の映画はすべて毒草である」ときめつけた。

文化大革命の非文化的狂乱

  • たとえば「舞台の姉妹」は「ブルジョアの個人奮闘を称賛。階級闘争を否定、30年代の映画を蘇らせるもの」と批判。
  • 66年5月には「十七年映画は反党反社会主義の毒草。錯誤路線を宣伝、反革命分子の復活。軍隊の古参幹部を醜悪化し、男女関係を描く。中間人物を描く」と攻撃。

 江青のこうした批判を根拠に映画人を否定しその地位を奪った。
  • 長春、北京、上海、すべての映画制作所は軍隊、労働者の“革命派’’に支配され、映画製作は中止、追及、闘争の場と化した。
  • 監督、脚本、俳優、映画人たちは“走資派”“反動的権威”“特務”としで仕事を奪われて吊るし上げられ、暴力、監禁、投獄、強制労働と迫害された。
  • 北京の映画大学は廃止、映画雑誌は全て廃刊、映画資料館のフイルム、資料は廃棄、十七年映画600余本の90%以上が“毒草”として上映禁止になり、1966年から72年まで「地雷戦」「地道戦」「南征北戦」の3本しか見ることはできなかった。

革命模範劇映画
 1970年代に入って、京劇やバレーの革命模範劇の舞台をそのまま撮影して革命模範劇映画ができた。
  • 革命京劇の「紅灯記」「智取威虎山」「沙家浜」「奇襲白虎団」「海港」、
  • 革命バレーの「紅色娘子軍」と「白毛女」「交響音楽〈沙家浜〉」である。
    8億の中国人は8本の革命模範劇映画だけを繰り返し見せられた。
    • また戦争映画などの再映画化もされて「渡江偵察記」や「南征北戦」など6本がカラー化された。“三突出”という英雄の中でも最も英雄的なものを描くという原則が正常な映画創作を壊した。

    文革劇映画
     さらに文革映画という劇映画が撮られた。74年春節に長春映画が「艶陽天」「青松嶺」「戦洪図」「火紅の年代」を一挙に公開した。長年、3本の戦争ものと8本の革命模範劇映画の繰り返し上映にあきていた大衆は劇映画に喜んだ。階級闘争の政治的道具として「創業」「春苗」「閃関的紅星」「決裂」など76年までに40本も撮った。強制労働農場などで働かされていた“反革命的”監督の謝晋や謝鉄麗、崔嵬たちが撮影所に呼び戻されて撮影を命じられたが、監督の意見などは政治的に無視された。

    文革の犠牲者たち
     こうした中で、上海映画では1000人のうち309人の芸術家、技術者が迫害されて16人が非正常な死に方をした。北京映画では800余人のうち500~600人が監禁、吊るし上げられ審査され、反革命として処分されたもの300人、迫害死したもの7人。長春映画では300人近い人たちが臨時強制収容所に不法監禁され、552人の芸術、技術管理部門幹部が寒村に追放された。
    • 女優の上官雲珠、超慧深などが自殺、
    • 劇作家で国歌の作詞者田漢、監督の鄭君里は獄死、
    • 蔡楚生は病院の廊下で惨死。
    • 監督の応雲衛は惨死、
    • 徐覇、迫害死、
    • 脚本家の海黙は殴殺。
    • 文化部副部長だった夏衍は8年の獄中で殴打され片目失明、片足不自由になった。
    • 二枚目スター趙丹は5年投獄、
    • 中国のガルボと言われた女優白楊も5年投獄。
    • 謝普監督が強制労働中に両親は自殺。2人の障害児も迫害された。 


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