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2017年3月6日月曜日

「中国百科 文化・芸術編」現代文学をめぐる「運動」と「制度」

現代文学をめぐる「運動」と「制度」の狭間の苦闘

中国現代文学は、激動する各時代において中国社会が直面した課題との熾烈な闘いの中で生まれた。その意味で、その時代の文学の「対抗軸」を考えることで「文学運動」と「文学制度」の狭間でもまれ続けてきた姿が浮かび上がる。

伝統文化・古典文学からの脱却を目指して
近代文学が、その封建的遺制から抜け出し、強肉弱食の世界に投げ出された中国社会に対峙して最初に直面した最大の壁は、1000年以上も続いた強固な封建的風土との闘いであった。それは文学云々の問題ではなく、社会の根底まで深く根ざした社会の後進性であった。
  • 1910年代後半には「五四新文化運動」が巻き起こり、「科学」と「民主」の普及が叫ばれた。
  • 文学領域では、胡適「文学改良審議」・陳独秀「文学革命論」(ともに1917年)が、文語定型体により高踏的世界を措く古典文学からの脱却を主張した。 
  • 魯迅は口語体小説『狂人日記』(1918年)を書き、封建的イデオロギーを批判した。
  • 1920年代に入ると、「文学研究会」や「創造社」をはじめとする文学団体も結成されて、「新文学」は定着していく。都市部を中心に、「革命文学」や「モダニズム文学」の運動も隆盛を迎える。

欧米列強そして日本の侵略に抗して
1920~30年代にかけて欧米列強そして日本の中国侵略がエスカレートしていくと、これに対する抵抗が文学的課題になっていく。
  • 1930年には魯迅も指導的役割を発揮した「左翼作家連盟」が結成され、国民党系文学者への批判や、文字が読めないような人々をも視野に入れた「文芸大衆化」運動を展開した。
  • 満州事変(1931年)以降、日本の中国侵略が本格化すると「抗戦文学」がスローガンとなり、前線や農村に赴いて宣伝活動に従事する作家たちも多かった。
  • 共産党根拠地・延安では、1942年、文芸座談会が開催され、毛沢東が「現在必要な文学とは何か」をめぐって講演を行なう。後に整理されて「文芸講話」(1943年公表)と呼ばれる。抗戦下の農村という特殊な環境に基づく文芸政策だったため、「文学は工農兵(労働者・農民・兵士)に服務する」という教育・宣伝作用を極度に重視し、文学を政治的基準から評価する傾向が強かった。

対抗軸としての「政治」から「創作自由」への苦闘
中華人民共和国が成立すると、毛沢東「文芸講話」の内容こそが目指すべき新しい中国文学(「人民文学」)の指針とされる。特殊な環境下での文芸政策が全国的に普遍化された。また、作家は中国作家協会に所属しなければならないという作家の組織化も進められた。こうした「文学制度」は、作家の生活保障という側面も存在したが、文芸思想を統制していく役割も担った。このように新しい国づくりに新しい息吹が感じられなければならないにも拘らず、社会や人々の意識は遅れた社会の中で飢えと苦しみにのた打ち回らなければならなかった。これも社会の後進性が重くのしかかった。
  • こうした状況に最初に異議申し立てをしたのが詩人・文学理論家の胡風「三十万言意見書」で、「完璧な共産主義世界観がなければ創作してはならない」ことを求めていると批判した。だが、胡風は1955年、「反革命罪」で投獄されてしまう。
  • その後、文革までの期間は、この「文学制度」は基本的に機能し、作家は抑圧状況に置かれた。
  • 文革後、建国以来の「文学制度」に対する見直しの動向も進み、1985年、「創作自由」が提唱される。
  • 作家・知識人たちは創作や社会的発言を通じて、中国社会における民主主義を拡張していったと言えるだろう。

商業主義との拮抗と中国文学の行方は?
まさしく遅れた社会を取り戻すためには、実に大きな犠牲を払わなければならなかった。中国の人々は、段階的な手順を踏むことなく、「市場原理社会」というパンドラの箱を開けてしまった。
  • 1990年代から21世紀に至ると、中国社会は市場経済の全面展開に基づく高度経済成長を遂げ、市場原理がすべてを貫く市場社会を出現させていく。
  • 高度情報化社会の登場とも相まって文学領域にも商業主義が蔓延し、「純文学の危機」が叫ばれたりもする。 
  • 作家・知識人たちは「人文精神論争」「『新左派対新自由主義』論争」と称される言説を積み重ねながら、商業主義と括抗する中国文学の未来を切り開こうと試みている。


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2017年1月31日火曜日

「中国百科 文化・芸術」第10章文学 「現代中国の作家たち」

4-10.01 現代中国の作家たち

この節の表題の「現代中国の作家」というカテゴリで見た場合、最大の影響を与えた人物は魯迅を置いて他はない。

20世紀前半:革命と戦争の時代

  • 魯迅(1881~1936年)は、浙江省の古都、紹興の官僚の旧家に生まれた。少年期に生家は没落し、給費制の学校を経て日本へ留学した。はじめは医学を志したが、中国民衆の覚醒への道を求めて文学に転じた。
    1918年、口語体で書かれた中国初の短編小説『狂人日記』は、「人が人を食う」儒教イデオロギーに絡めとられた人間の、「子どもを救って…」という祈りで終わる。
    『阿Q正伝』では、日雇い農民の阿Qが精神勝利法(現実生活での敗北を心の中で理屈をつけ勝ったことにする思考法)を重ねるうちに、処刑されてしまう。また、数多くの雑文・雑感を発表し、時の権力と闘った。
    紹興の文化に根ざした散文『朝花夕拾』『野草』も奥深い魅力がある。
  • 四川省出身の巴金(1904~2005年)は五四運動の影響を受け、大地主の生家を離れた。
    その体験から、旧家の大家族制の下で苦悩する三兄弟を長編小説『家』に描いた。『寒夜』では、抗日戦期の重慶に生きる弱者の哀しみが胸に迫る。
    文革で他の作家と同じく迫害されたが、文革後、自らを単なる被害者ではなく加害者だとして、深い内省と批判を『随想録』(1978-1986)に綴り、文革博物館の建造もよびかけた。(1985年国立現代文化館)
    1977年には、中国作家協会主席も勤めている。
    激流三部曲: 家・春・秋
    愛情三部局: 霧・雨・電
  • 老舎(1899~1966年):満州旗人(清代の軍事社会凪織、旗に属する満州人)の父が戦死し貧しい家庭に育った。
    北京の人々を哀感漂う筆致で活写した『駱駝祥子』、『四世同堂』がある。中華人民共和国で人民芸術家と称されたが、文革で紅衛兵の暴行を受けた後、亡くなった。
  • 丁玲(1904~86年):『莎菲女士の日記』で愛と性、自我に切りこんだ。国民党に夫を処刑され自身も幽閉を受け、のち解放区へ脱出した。
    短編小説『霞村にいた時』は、慰安婦にされながらも中国のために密偵を果たした女性の、明日への一歩を見つめた作である。 
  • 苗族など水辺の民を措いた沈従文『辺城』、
  • 日本軍の中国東北地区侵略で故郷を追われた粛紅の『呼蘭河の物語』(注:呼蘭河:黒龍江省、松花工の支流)
  • 茅盾の壮大なリアリズムの長編『子夜』
  • 上海を措いた張愛玲『傾城の恋』
  • そして聞一多や朱日清の詩作も、民国期の秀作として見逃せない。
  • 解放区では超樹理『小二黒の結婚』が歓迎され、のちに人民文学のシンボルとなった。

20世紀後半の改革開放から21世紀へ

文学に強い抑圧がかかった50年代から70年代を経て、80年代には多様な作家の才能が花開いた。
  • 右派のレッテルを貼られて約20年間執筆の機会を奪われた王蒙は、人物の意識の流れに沿って時空を移動する手法で『胡蝶』に自己の政治的運命への内省を反映した。
  • 両親が政治に翻弄され幼少期から孤独だった残雪は、『黄泥街』などグロテスクで不条理な世界に読者を誘う。
  • 文革中に知識青年として農村で生活した韓少功の『爸爸爸』
  • 文革期社会への省察に満ちた王小波『黄金時代』、
  • 上海を活写する王安億『富萍』
  • 阎連科:『丁庄の夢』(エイズ問題を描いた)
  • 余華:『活きる』も読者を魅了する。
  • 劉賓雁『人妖の間』、
  • 陳桂棣・春桃『中国農民調査』など、ルポルタージュの成果も大きい。
  •  贾平凹など、農民出身の作家も活躍がめざましい。
  • 2012年ノーベル文学賞に輝いた莫言は、1955年に山東省高密の村に生まれた。飢餓と抑圧にさらされている農村から脱出するため解放軍に入隊し、創作を始めた。 『透明な赤いカブ』、『赤い高梁』(後に映画化)、『蛙鳴』など、「幻想的なリアリズムで民話と歴史、現代を紡ぐ」小説が評価されている。
  •  21世紀の若手作家では、ブロガーの韓寒や、ライトノベル作家の郭敬明、古典の素養も豊かな笛安などが活躍している。

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2017年1月11日水曜日

「中国百科攻略ノート」  文化・芸術  文学上の日中交流

「中国百科」文学上の日中交流


文化交流の歴史

文学の交流の歴史の前に、日本と中国の間には非常に長い文化の交流があった。
勿論交流とはいえ基本的には中国から日本への一方的な流れであり、この長い交流の中で文学の交流が生まれてくるのであった。
 このことについては、非常に多くのことが語られているが、
「海外との日本文化・日本文学交流史展望」と題する、伊井春樹氏(国文学研究資料館)の論文が見つかったので、以下に紹介させて頂く。

中国から日本に文字がもたらされたのは三世紀から五世紀の頃、6世紀になると仏教も伝来し、それまでの自然崇拝として形成されていた神道と融合しながら、新しい文化が日本列島に根づいてきた。その中国の文字を用い、日本語を表現しようと、古代の人々はさまざま工夫をし、本格的な日本文学と称してもよい作品が生まれたのが、『古事記』712年であった。神話としての日本国土の生成から、7世紀の第33代推古天皇までが語られる。ただ、文字は中国の、いわゆる漢字を用いての日本語の表記であった。それが八世紀になって漢字から日本独自の文字、かな文字が発明され、やがて日本の文字による独自の文学が次々と生み出されてくることになる。10世紀初頭の韻文の『古今集』、散文では『土佐日記』があり、これ以降については今さら述べるまでもないことで あろう。 19世紀の江戸時代末までに、日本ではどれほどの文学作品が生まれたのか、 その数は膨大であろうし、伝来しないで消失したのも多いはずである。千年以上もの間、中国の影響は大きく、仏典以外にも多様な本や思想、が輸入され、人々に読まれるとともに、日本の文学に取り込まれ、日本式に翻訳もされていった。

 これ以外にも、多くの特筆すべき事柄がある。
 例えば、魏志倭人伝に書かれていた交流、遣隋使、遣唐使、鑑真和上が果たした役割はとてつもなく大きいことを知っておくべきだろう。魏志倭人伝のころは日本はまだその当時は国家という形をなしていない時代であったろう。中国では既に、統一国家が作られ、壊れたり、覇を争ったりしながら抗争を続けていた時代であったろう。文化レベルの違いは雲泥の差といってよかった時に、朝貢という形にしろ大陸の文化を吸収しようとしていたことは、感動的といえる。
 また遣隋使、遣唐使は本当に命を懸けて多くの人々が海を渡り、新しい先端の文化を吸収しようとあくなき挑戦を続けていた。
 鑑真和上に至っては、自身は中国で既に高い地位に上り詰めていたにも拘らず、日本のため、5回も渡航に挑戦し、6回目にして漸く、日本の地に辿りつき、日本の仏教界に骨をうずめた人もいる。

文学交流の歴史
 以上のような文化交流の非常に長い差歴史を背景に、本題の文学における日中の交流に入っていくことになるが、文学における日中の交流は近代以前と以後で大きく性格を異にする。
明治以前は、交流は基本的に中国の文学を日本が摂取する形でなされた。以下日本の文学に見る中国の影響を対比的に列挙したい。
日本最古の歌集『万葉集』の歌には中国の古典詩の影響を少なからず見出すことができる。

  • 山上憶良の「貧窮問答歌」・・・陶淵明の「詠貧士」などの詩句を階まえた表現がある。
  • 人麿や大伴旅人、家持父子の歌・・・六朝の詩人の影響が指摘されている。
  • 平安朝の歌人、詩人・・・白楽天の『白氏文集』は最高の愛読書であった。
  • 漢詩人菅原道真だけでなく、紫式部、清少納言の作品にも白楽天の詩が反映している。
  • 江戸時代には菅茶山、頼山陽、齋藤拙堂など多くの優れた漢詩文の書き手が輩出し、日本における中国古典文学受容のピークを形成した。
  • 明治の森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、樋口一葉、永井荷風、石川啄木、芥川龍之介、佐藤春夫なども中国の古典から学んだものが少なくない。

近現代文学における日中交流

 1877年、明治の日本に最初にやってきた中国の文学者は黄遵憲で、彼は日本の漢学者との筆談を通じて日本の近代化と日本が摂取した中国文化を理解し、帰国後それを紹介する『日本雑事詩』を表した。この著作は日本の1つ1つの事象を200首の七言絶句で表現した興味深いものである。

日清戦争後日本にやってきた中国の留学生達

 魯迅、周作人、郭抹若、郁達夫、田漠をはじめとする多くの中国人学生が日本に来て、当初は医学や経済学などの実学を学んだが、いずれも文学に進路を変えた。こうして「中国文壇の大半は日本留学生によって占められる」(郭沫若)という状況が出現した。郁達夫、田漢は留学中、佐藤春夫と交流を持ち、郁は特にその影響を受けたが、日中戦争が始まって以後、佐藤が中国侵略に傾斜したため、決別した。
この中で近現代の日中の文学の交流でもっとも大きな役割を果たしたのは、魯迅である。
 以下に魯迅について詳しく触れてみよう。

 魯迅は弟の周作人とともに多くの日本人作家、森鴎外、夏目漱石、武者小路実篤、有島武郎、芥川龍之介、菊池寛などの作品を翻訳している。
 また彼は漱石の随筆「クレイグ先生」を翻訳しただけでなく、それに触発されて回想記『藤野先生』を書いた。また1921年芥川龍之介の中国訪問に合わせて『羅生門』等を翻訳して紹介し、芥川は北京訪問時に自作の魯迅訳を読んでいる。
 魯迅の『ある小さな出来事』は芥川の『蜜柑』に触発されて書かれた作品と考えられている。
 魯迅の作品は日本に少なからぬ読者を持った。中でも『故郷』と『藤野先生』は第2次世界大戦後日本の国語教科書に採用され、日中の交流と民族の問題を考える好個の教材となっている
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