豊子愷と漫画
中国漫画の誕生
「漫画」という日本の名称を中国に広めたのは、日本に来た青年教師豊子愷だった。 1921 年に 23 歳の豊子愷は上海から東京に私費留学。美術、 音楽、日本語を学び、竹久夢二に傾倒。帰国後美術教師をしつつ 25 年に『文学週報』 に抒情漫画を「子愷漫画」として発表。同年末『子愷漫画』 出版。それまでは風刺画、寓意画と言われていて、 1919 年に但杜宇の『国恥画譜』などがあったが漫画は日常生活を幅広くとらえて新鮮だった。
抗日の闘いに捧げた漫画
1927 年、上海で張光宇、黄文農たちは漫画の名称をつけた会を結成。 28 年にその漫画会は大判 2 色刷の週刊『上海漫画』を創刊。多彩な漫画で上海漫画時代を開拓。 30 年までに 110 号出した。1934 年 9 月から 37 年 6 月まで上海で『時代漫画』『漫画生活』 など 19 種の漫画雑誌が創刊された。 36 年には、上海南京路の大新公司で豊子愷も参加した第1回全国漫画展覧会が関かれた日応募作品から 600 点が選ばれて出展、 9000人以上が見た。 ここから華君武、米谷など若い世代が育った。この漫画展は南京、蘇州、杭州などを巡回したが、 37 年、日中戦争勃発。広西省で展示中、日本軍機の爆撃で焼失。上海の漫画家は救亡漫画宣伝隊に加わり、南京、武漢と移動しつつ、抗日漫画 1000 点を描き、 100 囲の展示会を開いた。豊子愷も自宅が戦火で全焼、蔵書、画稿すべてを失い、家族と流浪の旅を続 けた。41 年貴州・遵義で豊子愷は失った漫画424 点を 38 日間で描き直した。恭君武は延安で、豊子盤、張光字は重慶で漫画展を聞いた。
戦後と文化大革命
1945 年、戦争が終わり、薬君武は東北で、米谷らは上海で漫画を描き、豊子愷は台北や香港で個展を開き絵を売った。 49 年中華人民共和国成立。漫画家たちは全国誌『漫画』に作品を発表した。 60 年豊子愷は上海国画院校長となり、教務のかたわら「源氏物語」などを翻訳。 66 年の文化大革命は漫画家を追放、豊子愷も批判され強制労働下でひそかに「竹取物語」「伊勢物語」を訳した。 1975 年、癌で死亡。 78 年に名誉回復。 80 年 「源氏物語」出版。 2001 年『豊子愷漫画全集』全 9 巻刊行。
「漫画」という日本の名称を中国に広めたのは、日本に来た青年教師豊子愷だった。 1921 年に 23 歳の豊子愷は上海から東京に私費留学。美術、 音楽、日本語を学び、竹久夢二に傾倒。帰国後美術教師をしつつ 25 年に『文学週報』 に抒情漫画を「子愷漫画」として発表。同年末『子愷漫画』 出版。それまでは風刺画、寓意画と言われていて、 1919 年に但杜宇の『国恥画譜』などがあったが漫画は日常生活を幅広くとらえて新鮮だった。
抗日の闘いに捧げた漫画
1927 年、上海で張光宇、黄文農たちは漫画の名称をつけた会を結成。 28 年にその漫画会は大判 2 色刷の週刊『上海漫画』を創刊。多彩な漫画で上海漫画時代を開拓。 30 年までに 110 号出した。1934 年 9 月から 37 年 6 月まで上海で『時代漫画』『漫画生活』 など 19 種の漫画雑誌が創刊された。 36 年には、上海南京路の大新公司で豊子愷も参加した第1回全国漫画展覧会が関かれた日応募作品から 600 点が選ばれて出展、 9000人以上が見た。 ここから華君武、米谷など若い世代が育った。この漫画展は南京、蘇州、杭州などを巡回したが、 37 年、日中戦争勃発。広西省で展示中、日本軍機の爆撃で焼失。上海の漫画家は救亡漫画宣伝隊に加わり、南京、武漢と移動しつつ、抗日漫画 1000 点を描き、 100 囲の展示会を開いた。豊子愷も自宅が戦火で全焼、蔵書、画稿すべてを失い、家族と流浪の旅を続 けた。41 年貴州・遵義で豊子愷は失った漫画424 点を 38 日間で描き直した。恭君武は延安で、豊子盤、張光字は重慶で漫画展を聞いた。
戦後と文化大革命
1945 年、戦争が終わり、薬君武は東北で、米谷らは上海で漫画を描き、豊子愷は台北や香港で個展を開き絵を売った。 49 年中華人民共和国成立。漫画家たちは全国誌『漫画』に作品を発表した。 60 年豊子愷は上海国画院校長となり、教務のかたわら「源氏物語」などを翻訳。 66 年の文化大革命は漫画家を追放、豊子愷も批判され強制労働下でひそかに「竹取物語」「伊勢物語」を訳した。 1975 年、癌で死亡。 78 年に名誉回復。 80 年 「源氏物語」出版。 2001 年『豊子愷漫画全集』全 9 巻刊行。
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