上海映画の黄金時代
映画の都上海
上海は映画の都となった。東洋のハリウッドと言われるほど映画会社、映画館が集中していた。「中国電影年鑑1934」によると映画会社は1922年に設立の明星、1925年の天一、1929年の聯華の大手3社を含めて48社、監督は張石川から若手の察楚生まで85人、俳優は阮玲玉、胡蝶、超丹、など199人、脚本家20人。映画館は魯迅がよく通った静安寺格の座席3000の大光明大戯院をはじめとして37館、そのうち19館がハリウッド映画専門館で、1933年に309本、34年に344本、「ターザン」「街の灯」「ミッキーマウス」「グランドホテル」などを公開した。それでも中国映画は各社で撮られ、映画黄金時代といえる活気となった。
左翼映画運動おこる
1933年2月、中国映画の進歩的映画人は中国電影文化協会を成立、鄭正秋、胡蝶、孫瑜ら21人が執行委員に選ばれた。 外に侵略、内に圧迫の中で一致して映画を作る。芸術は宣伝、映画は宣伝の芸術ということで夏衍たちが映画小組を結成した。 この年、左翼映画が豊作。
まさに左翼映画運動ともいえる勢いで5年間に70本以上の作品が撮影された。上海は映画の都となった。東洋のハリウッドと言われるほど映画会社、映画館が集中していた。「中国電影年鑑1934」によると映画会社は1922年に設立の明星、1925年の天一、1929年の聯華の大手3社を含めて48社、監督は張石川から若手の察楚生まで85人、俳優は阮玲玉、胡蝶、超丹、など199人、脚本家20人。映画館は魯迅がよく通った静安寺格の座席3000の大光明大戯院をはじめとして37館、そのうち19館がハリウッド映画専門館で、1933年に309本、34年に344本、「ターザン」「街の灯」「ミッキーマウス」「グランドホテル」などを公開した。それでも中国映画は各社で撮られ、映画黄金時代といえる活気となった。
左翼映画運動おこる
1933年2月、中国映画の進歩的映画人は中国電影文化協会を成立、鄭正秋、胡蝶、孫瑜ら21人が執行委員に選ばれた。 外に侵略、内に圧迫の中で一致して映画を作る。芸術は宣伝、映画は宣伝の芸術ということで夏衍たちが映画小組を結成した。 この年、左翼映画が豊作。
- 明星の「狂流」「前程」「圧迫」「春(はるご)蚕」(すべて夏衍脚本)「鉄板紅涙録」「女性の呐喚」。
- 芸華「民族生存」(田漢)。聯華「母性之光」(田漠)、「脂粉市場」(夏衍)。
- 明星は1932~33年に15作を出した。1932年、上海事変後、経営危機に陥った明星は左翼系演劇人夏衍たちに協力を求めた。彼らは社会を描くリアリズム映画の脚本、監督で支援した。
- 聯華は阮玲玉主演で33年「おもちゃ」(孫喩)、35年「女神」(呉永剛)、「新女性」(蔡楚生)とつづいた。
- また34年の黎莉莉の「スポーツ女王」(孫喩)が明るくて、蔡楚生の36年の「さまよえる子羊」は中国の孤児を見すえた。
- 新華では呉永剛、金焔の「壮志凌雲」が敵と戦う若者の壮快さを見せた。
官憲による弾圧
こうした動きに国民党政府の検閲は暴走する。1930年に映画検査法を制定した南京の国民党政府は三民主義に違反するものを取り締まるという条項によって階級闘争を鼓吹したり、反日的傾向の作品にハサミを入れた。芸華の岳楓の「中国海の怒潮」は1600メートルもカットされ、芸華は暴徒に襲われて破壊された。映画館に脅迫状が送りつけられてきて恐怖の報酬を受けることになった。
- 夏衍らは外圧によって明星を除名され1934年に共産党系の電通に移る。
- 電通は許幸之の「風雲児女」や応雲衛で蓑牧之、陳波児共演「若者の不運」など4本を作って中断。「若者の不運」のラストの主人公の処刑シーンは検閲でカットされた。のちに毛沢東夫人となる江青は藍東という名の女優としてここに所属していた。
- 田漢が逮捕投獄され、
- 阮玲玉が自殺し、
- 夏衍たちを指導した共産党の瞿秋白が銃殺され、
- 鄭正秋が病死した。
- 作曲家聶耳は亡命してソ連に行く途中日本の海で溺死した。
- 夏衍も国民党官憲に追われ日本に潜入した。
- 電通は弾圧で映画制作中止に。
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