2017年3月28日火曜日

「中国百科 文化編」 10.03 世界に広がる華文文学

世界に広がる華語文学

世界に広がる华文(華文)文学
最近では中国から見た海外の中国人作家の文学を「海外」というのではなく、「世界」という言葉を用いて、「世界華文文学」と表現している。
東南アジアにはそのほかにタイ、フィリピン、インドネシア、ブルネイなどにも華文で創作する作家たちが華文作家協会を結成し、作品を載せる華語の新聞、雑誌も発行されている。
オーストラリア、ニュージーランドにも華人作家はいる。欧米には長年その土地に住む華人による華文文学の他に、新たに中国を出、エミグラント(移住者)として在住している高行健や北島のような作家、詩人がいる。


シンガポール・マレーシア
シンガポールの華人人口:400万人を背景に、「新華文学」
マレーシア華人人口:700万人 「馬華文学」と表現している。
東南アジアにはそれぞれの国で活躍する華人たちが華文作家協会を結成している。
シンガポールを代表する作家 黄孟文
マレーシアを代表する作家 朶拉
マレーシアでは華語環境を維持するのはシンガポールよりも厳しく困難であるが、タイの司馬攻とともに中国でも刊行されている。


欧米・台湾に広がる華語文学
欧米・台湾を代表する作家: 劉賓雁、北島、高行健、李昴、白先勇
新しく移住した、既に一定の実績を持つ作家が中心で、東南アジアの華文文学とは性格を異にする。


 欧米
  • 1960年代から90年代にかけてアメリカのアイオワ州立大学の創作センターを台湾の白先勇、瘂弦、中国大陸からは王蒙、劉賓雁などが訪れ、滞在した。このうち劉賓雁はアメリカで生涯を終えた。
  • 文革後の作家劉索拉、阿城はアメリカに在住、台湾からアメリカに移住した聶華苓、於梨華の2人の女性作家はそれぞれ代表作をアメリカで書いている。
  • 『今天(TODAy)』(1978~80年刊行の地下文学雑誌)の創始者北島はイギリスに渡って『今天』を再刊し、同誌に発表した作品を詩集『天涯にて』にまとめて出版した。
  • 海外でもっとも成果を上げた華文作家はノーベル文学賞を受賞した高行健である。『ある男の聖書』と『霊山』はノーベル文学賞受賞作である。
    『ある男の聖書』は、今は外国で暮らす劇作家の中国にいた頃のさまざまな体験と現在のエミグラントとしての生活が描かれている。主人公に中国にいたころを「彼」という3人称を用い、現在を描く時は「おまえ」という2人称を使うという手法で書かれた作品である。
 台湾
 台湾文学は通常華文文学に含めないことが多いが、五四以来多くの優れた作家、作品を生みだした。
  • 李昂:  フェミニズム文学の代表で、虐げられた女性が暴力をふるう夫を殺害する『夫殺し』を書いた
  • 白先勇: 男性の同性愛者を描いた『罪の子』を発表した
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2017年3月7日火曜日

変文と元雑劇と明清の戯曲

変文から元雑劇をへて明清の戯曲へと広がる文芸の世界

文人の作る文学の主流が文言(文語体)であったのに対し、白話(口語体)の文学は「俗」と見なされ、当時はあまり評価されなかった。しかし特に元代以降 1つの文化として大きな広がりを見せたことには間違いがない。

変文から宋の芸能まで
[変文」は、唐代中期に盛んとなった韻文と散文を組み合わせた語り物で、元は布教のため仏教僧が民衆に絵を見せながら語るものだったが、後に仏典と関係のない題材も扱われ、 『伍子胥変文』 など歴史物もある。変文は、 20 世紀初頭に敦煙で唐などの古文書とともに発見された。
  • 宋代、都市の発達に伴って、民衆向けの様々な芸能が活況を呈し、雑劇と呼ばれる演劇が人気を博した。金でも、院本と称する演劇が存在したほか、語り物の一種「諸宮調」が行なわれ、董解元 『西廂記諸宮調 』 が現存する。

元雑劇(元曲)
元代、科挙が中止されると、出仕の道を断たれた知識人が雑劇の製作に多く参与するようになり、その芸術性は格段に向上した。雑劇は、通例 4つの「折」すなわち 4 幕に分けられ、また「楔子」と呼ばれる小段が加えられることがある。それぞれの折は、「唱・科・白(うた・しぐさ・せりふ)」から構成される。
  • 後世に最も影響を与えた作品は王実甫 『西廂記』 で、張生と崔鶯鶯の恋物語である。
  • 関漢卿は元雑劇の代表作家で、話し言葉を駆使した素朴な文体、 4折の短編劇に相応しい緊密な構成にすぐれ、 『救風塵』 『賓蛾寛』など、女性を主人公とした作品が多い。
  • 馬致遠の 『 漢宮秋 』 は、王昭君の不幸な物語を題材とする。
  • 他にも殺人事件をめぐる裁判劇である孟漢卿 『魔合羅』 、家庭のいざこざを描いた武漢臣 『老生児』 などがある。これらは明の時代に偏纂された 『元曲選』 によって広く流布した。

明清の戯曲
明代には、5 音階の南方系歌曲を用いる「南戯」が隆盛した。南戯には長編が多く数十段に及ぶものが多い。また主役に限らず、あらゆる役柄がうたうことができ、これらの点が雑劇と対照的である。
  • 元末明初の高明の名作 『琵琶記』 が南戯隆盛のさきがけとなった。
  • 有名な作品としては 「荊劉拝殺」と称され『箭钗记』 『劉知遠白兔記 』 『拝月亭幽関記』 『殺狗記』 の 4大作がある。
  • その後南戯は低迷期に入るが、後の崑曲につながる[崑山腔」が創始され、梁辰魚 『浣紗記』 などが人気を博した。
  • 明代最高の劇作家は湯顕祖で、 『 紫钗記 』 『 牡丹亭還魂記 』 『 南柯記 』 『邯郸記 』 の 4 作品は、みな夢をテーマとし、彼の書斎名をとって「玉茗堂四夢」と総称される。特に 『牡丹亭還魂記』 は明代南戯の代表作で、 2 人の男女が夢で恋に落ち、最後は現世で結ばれる、という内容を美麗な文辞で綴る。
  • また明代南戯の選集に、明・毛晋 『六十種曲』 がある。
  • 清代南戯の傑作は洪昇 『 長生殿 』 と孔尚任「桃花扇 』 である。 『長生殿』 は、唐の玄宗と楊貴妃のロマンスを描いた。 『 桃花扇』 は、作者自らが体験した明末の動乱を題材に実在の人物を登場させた歴史劇である。
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古文復興と八大家

古文復興と唐宋八大家

文の世界では、南北朝時代の骈文の流れは唐代まで続いていた。 しかし骈文から脱却しようとする動きが中唐になって出てきた。

韓愈と柳宗元
韓愈は自然な文体を創出することを主張し、先秦から漢代の文体を模範とした。柳宗元は一生の大半を僻地で過ごしたことにより、その作品は自然や人間を措いたものが多い。彼らの新しい文体は「古文」と呼ばれた。


唐宋八大家
古文運動は韓愈らの時代には主流とはならず、晩唐から宋の初期には骈文が復活する。末代の古文運動は欧陽脩に始まる。後に「唐宋八大家」欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人を、後に」
  • 官僚としてもほぼ頂点を極めた欧陽脩は、科挙制度の責任者になったことも重いし、後進の王安石や蘇軾らとともに、古文を普遍的な文体とすることに成功する。
  • 韓愈を範とした欧陽脩の文がやや難解であるのに対し、蘇軾のそれはさらに自然な趣を持つ。
  • 彼らの文章は後世の規範となったため、後に「唐宋八大家」と称されるようになったのは、欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人である。
  • 「唐宋八大家」  欧陽脩、曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍、蘇軾、蘇洵、韓愈と柳宗元

伝奇
南北朝時代に起こった「志怪」のジャンルは、唐代には「伝奇」となっ て受け継がれる。志怪の多くが出来事を記すのみだったのに対し、伝奇は物語としての完成度が高い。さらに時代が下 ると、伝奇のテーマの主流が怪奇な現象から才子佳人の話に移るようになる。なお、怪奇な事象を記した文言小説はその後も受け継がれ、清代には更なる傑作が生まれるようになった。


  • 沈既済の『枕中記』、『任氏伝』、李公佐の 『南柯太守伝』がその代表である。
  • 張鷲の『遊仙窟』は中国では早くに失われたものの日本で長く伝えられた異色の作品である。
  • 白居易の弟の白行簡の『李娃伝』(795年)や元稹の『鶯々伝』が有名である。
  • 清代には『聊斎志異』『子不語』『閲微草堂筆記』などの名作を生むこととなる。
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「中国百科 文化・芸術編」 辞賦と文言小説

中国古典文学の「文」形式

中国古典文学の中心は古来「詩」と「文」とされる 。 ここで言う文とは 文語体(文言)の散文などを指し、口語体(白話)の小説などは含まない。


戦国時代から漢代、南北朝時代にかけて「辞賦」あるいは「賦」と呼ば れるジャンルがあった。宮廷に仕える文人が皇帝や皇族に捧げる文が「辞賦」である。
  • 漢の武帝の時代の司馬相如に「子虚の賦」「上林の賦」という作品がある。壮大な狩猟の様子を描写しつつ漢の皇帝を称え、かつ調 轍で締めくくる内容になっている。
  • 後漢には班固の「両都の賦」、張衡の 「二京の賦」があり、いずれも前漢と後漢の都、長安と洛陽の繁華な様を綴った名作である。
  • この時代に編まれた『文選』は、南北朝時代の南朝梁の昭明太子がそれまでの文学の住作を集めて編んだ選集で、大変価値の高いものである。
志怪
南北朝時代に「志怪」と呼ばれる短編小説が流行した。ただ「志怪」の体裁は統ーされておらず、非常に短いもの、 結末がないものも多い。
  • 東晋の干宝の『捜神記』 や規の曹丕の撰とされる『列異伝』、南朝宋の劉義慶の『幽明録』などがあり、奇怪な出来事を記す。
  • このジャンルは唐代の「伝奇」を経て、清代の『珊斎志異』等に至るまで受け継がれる。
世説新語
宋の劉義慶の『世説新語』は、当時の名土の逸話を集めたもので、「志怪」に対して「志人」小説と呼ばれることもある。
  • 三国志で有名な諸葛亮 ( 孔明 ) の登場する方正篇などがある。
骈文
南北朝時代頃から、文章を4字や 6字で区切って対句の形式とし ( 四六島井傭体)、詩のように平仄を意識した方式が主流となる。そもそも骈文とは対偶法で書かれた文章のことを言う。(べん文)
  • 制約の多い骈文の流行により文章の内容よりも形式にとらわれた不毛な作品も多くなり、これが中唐の古文復興運動へとつながっていく。

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2017年3月6日月曜日

「中国百科 文化・芸術編」現代文学をめぐる「運動」と「制度」

現代文学をめぐる「運動」と「制度」の狭間の苦闘

中国現代文学は、激動する各時代において中国社会が直面した課題との熾烈な闘いの中で生まれた。その意味で、その時代の文学の「対抗軸」を考えることで「文学運動」と「文学制度」の狭間でもまれ続けてきた姿が浮かび上がる。

伝統文化・古典文学からの脱却を目指して
近代文学が、その封建的遺制から抜け出し、強肉弱食の世界に投げ出された中国社会に対峙して最初に直面した最大の壁は、1000年以上も続いた強固な封建的風土との闘いであった。それは文学云々の問題ではなく、社会の根底まで深く根ざした社会の後進性であった。
  • 1910年代後半には「五四新文化運動」が巻き起こり、「科学」と「民主」の普及が叫ばれた。
  • 文学領域では、胡適「文学改良審議」・陳独秀「文学革命論」(ともに1917年)が、文語定型体により高踏的世界を措く古典文学からの脱却を主張した。 
  • 魯迅は口語体小説『狂人日記』(1918年)を書き、封建的イデオロギーを批判した。
  • 1920年代に入ると、「文学研究会」や「創造社」をはじめとする文学団体も結成されて、「新文学」は定着していく。都市部を中心に、「革命文学」や「モダニズム文学」の運動も隆盛を迎える。

欧米列強そして日本の侵略に抗して
1920~30年代にかけて欧米列強そして日本の中国侵略がエスカレートしていくと、これに対する抵抗が文学的課題になっていく。
  • 1930年には魯迅も指導的役割を発揮した「左翼作家連盟」が結成され、国民党系文学者への批判や、文字が読めないような人々をも視野に入れた「文芸大衆化」運動を展開した。
  • 満州事変(1931年)以降、日本の中国侵略が本格化すると「抗戦文学」がスローガンとなり、前線や農村に赴いて宣伝活動に従事する作家たちも多かった。
  • 共産党根拠地・延安では、1942年、文芸座談会が開催され、毛沢東が「現在必要な文学とは何か」をめぐって講演を行なう。後に整理されて「文芸講話」(1943年公表)と呼ばれる。抗戦下の農村という特殊な環境に基づく文芸政策だったため、「文学は工農兵(労働者・農民・兵士)に服務する」という教育・宣伝作用を極度に重視し、文学を政治的基準から評価する傾向が強かった。

対抗軸としての「政治」から「創作自由」への苦闘
中華人民共和国が成立すると、毛沢東「文芸講話」の内容こそが目指すべき新しい中国文学(「人民文学」)の指針とされる。特殊な環境下での文芸政策が全国的に普遍化された。また、作家は中国作家協会に所属しなければならないという作家の組織化も進められた。こうした「文学制度」は、作家の生活保障という側面も存在したが、文芸思想を統制していく役割も担った。このように新しい国づくりに新しい息吹が感じられなければならないにも拘らず、社会や人々の意識は遅れた社会の中で飢えと苦しみにのた打ち回らなければならなかった。これも社会の後進性が重くのしかかった。
  • こうした状況に最初に異議申し立てをしたのが詩人・文学理論家の胡風「三十万言意見書」で、「完璧な共産主義世界観がなければ創作してはならない」ことを求めていると批判した。だが、胡風は1955年、「反革命罪」で投獄されてしまう。
  • その後、文革までの期間は、この「文学制度」は基本的に機能し、作家は抑圧状況に置かれた。
  • 文革後、建国以来の「文学制度」に対する見直しの動向も進み、1985年、「創作自由」が提唱される。
  • 作家・知識人たちは創作や社会的発言を通じて、中国社会における民主主義を拡張していったと言えるだろう。

商業主義との拮抗と中国文学の行方は?
まさしく遅れた社会を取り戻すためには、実に大きな犠牲を払わなければならなかった。中国の人々は、段階的な手順を踏むことなく、「市場原理社会」というパンドラの箱を開けてしまった。
  • 1990年代から21世紀に至ると、中国社会は市場経済の全面展開に基づく高度経済成長を遂げ、市場原理がすべてを貫く市場社会を出現させていく。
  • 高度情報化社会の登場とも相まって文学領域にも商業主義が蔓延し、「純文学の危機」が叫ばれたりもする。 
  • 作家・知識人たちは「人文精神論争」「『新左派対新自由主義』論争」と称される言説を積み重ねながら、商業主義と括抗する中国文学の未来を切り開こうと試みている。


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「中国百科 文化・芸術編」科挙の詩人たちと詞

宋代の詩人たち

はじめに
唐も終わり、五代十国の時代を経て成立した宋代に入ると、科挙制度が定着し優秀な官僚でもあり、優れた詩人たちを輩出した。

晩唐詩
晩唐の代表的詩人には杜牧・李商隠がいる。

北宋の詩人たち
宋詩の特質はその理性と知性にあり、唐詩のような奔放な心情の吐露は影を潜める。題材も日常の些細な出来事を冷徹に詠むことが多<なる。欧陽惰・梅尭臣がこうしたそし詩風のさきがけとなり、その後王安石と蘇軾が現れる。
  • 蘇軾は宋を代表する詩人であり、政争による度重なる流れにも屈しない、楽観的な逞しさが、その詩にも明朗闊達な趣を与えている。
  • 弟の蘇轍、字は子由
  • 蘇軾の門下黄庭堅は宋詩の理知性を最もよく代表し蘇軾とともに「蘇黄」と併称される。

南宋・金の詩
金に北方を占領され、臨安に遷都して以降を、南宋と言う。南宋第一の詩人は陸游で、愛国や閑適などを題材とした、一万首に近い詩が今に伝わる。
  • 金では、元好問が杜甫の影響を受け重厚な詩を作った。元以降、その時代を代表する傑出した詩人が現れることはついになかった。

詞とは詩余とも呼ばれ、唐代に始まり、宋代に絶頂を迎えた歌辞文芸である。
  • 晩唐の温庭筠から独自の発展を始めた。
  • 五代には詞選集『花間集』が編纂され、南唐の国主李璟・李煜父子らの宮廷で詞が栄えた。
慢詞
詞牌と呼ばれる既存の楽曲に後から歌詞をつけるので、一つの楽曲に複数の歌詞が存在する。詩と異なり、一旬の字数が長短不揃いなのも特徴の 1 つである。
  • 北宋では、それまで詞の主流だった短編の「小令」に加え、長編の「慢詞」が作られた。
  • 慢詞の達人には柳永がおり、また蘇軾は、艶っぼい作品の多い詞の世界に詩の題材を持ち込み、新境地を開いた。
  • この他、典雅な慢詞を作った周邦彦、女性詞人李清照、南宋の辛棄疾らがいる。
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「中国百科 文化・芸術編」漢詩の起こりと進化

漢詩の起こりと進化

はじめに
儒教の最初の経典、つまり孔子やその弟子が編んだとされる書物に、「四書五経」(大学・中庸・論語・孟子・詩経・書経・易経・礼記・春秋)がある。そのうち文学の最初の書と言えるのが『詩経』である。

■詩経
『詩経』は春秋時代の中期ごろの当時の中国北中部の地域の歌305篇を集めたもので、編纂者は孔子と言われている。『詩経』は「風」「雅」「頒」の3つに分類される。 
  • 「風」は国風とも言い、春秋時代の各地の歌謡で160篇あり、地方ごとにさらに「周南」「召南」「榔風」「麟風」など15に細分化される。
  • 「雅」は周王室の宴会等で歌われた歌謡で105篇あり、「小雅」と「大雅」に分けられる。
  • 「頒」は祖先を祭る際の歌で40篇あり、国によって「周頒」「魯頒」「商頒」に分けられる。詩は1句4文字の四言詩で、偶数句で韻を踏む。

■楚辞
『詩経』の詩から300年ほどのち、南の楚の国の歌を集めた『楚辞』が編まれた。
  • 『楚辞』の中心的な作者は屈原である。楚の王族の出身とされる屈原は、大臣として活躍するが勢力争いに敗れて追放され、失意のうちに滑羅(川の名)に身を投げて死んだと言われる。屈原の代表作は「離騒」 で、楚辞の代表作でもあり、失意のどん底にあった屈原が、その怒りと悲しみを詠った作品である。
■五言詩と陶淵明
詩はその後、後漢から六朝時代にかけて五言詩が一般的となり、さらに七言詩が生まれてくる。こうした形態は漢代に起こった「楽府」という歌謡が起源と考えられる。南北朝時代に編纂された詩や文の選集『文選』収録の「古詩十九首」が古い五言詩として最も有名である。
  • 三国時代の親の皇帝一族である、曹操、曹丕、曹植はいずれも文学者としても高い能力を持ち、多くの五言詩を残している。中でも曹植は三国から南北朝時代を通じてもトップクラスの文学者である。 
  • 東晋から南北朝時代の南朝宋の時代の詩人、陶淵明は、隠逸詩人と呼ばれる。他の詩人たちが宮廷で詩を詠んだのに対して、農村で暮らしながら、自然や農村での生活を詠った、当時としては異質の詩人である。

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