2017年1月31日火曜日

「中国百科 文化・芸術」第10章文学 「漢詩の全盛期」

漢詩の全盛期

唐の文学上の時代区分
李白と社甫は、中国を代表する大詩人である。その 2 人が同時代に生きたということは、繁栄と混乱をあわせもつ激動の時代が、彼らを、そ して彼らの作品を作り上げたと言っても過言ではない。唐を文学の流れによる区分で初唐・盛唐・中唐・晩唐の 4 期に分ける方法がある。李白と社甫 が生きた時代を盛唐とするのは、 2 人への評価の高さを示すものである。但し盛唐には他に、自然を詠った詩の多い孟浩然、王維、辺境地帯の風土を詠んだ辺塞詩に特色を持つ高適、岑参、王昌齢といった詩人がいる。

李白

黄鶴楼
 「詩仙」と称され、 8 世紀に活躍した李白の生涯は不明な点が多い。若 い頃は道士修行や、侠客との交際など、放浪の生活だった。玄宗の時に 推薦により翰林供奉となるが、約 2 年で辞職。安史の乱の混乱期も生き 抜いたが、最期は月を取ろうとして長江に落ちたという伝説もある。 李白は七言絶句を得意とし、自由な発想、と豪快な表現を特徴とする。数多い名作のうち、『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』を紹介する。

故人西辞黄鶴楼 故人西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月下揚州 煙花三月揚州に下る
孤帆遠影碧空尽 孤帆の遠影碧空に尽き
唯見長江天際流 唯だ見る長江の天際に流るるを
目の前に情景が浮かぶような描写力とスピード感。李自の真骨頂である 。
李白が猿声を聞いた白帝城は長江の
泥水に囲まれて昔の風情は今いずこ?

杜甫

「詩聖」と称される社甫は、李白より 10 歳ほど年少。役人を志すもかなわず、仕官のため、生活のために人生の大半を放浪して過ごした杜甫の 作品には、失意と沈欝さがあふれている。中でも、彼は社会の矛盾を訴える詩を多く作る。日本では『春望』( 国破れて山河あり… ) が有名だが、ここでは晩年の名作、七言律詩『登高」の前半四句を示す。
風急天高猿嬬哀 風急に天高くして猿輔哀し
渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙白〈鳥飛び廻る
無辺落木語講下 無辺の落木は請請として下り
不尽長江滚滚来 不尽の長江は滾々として来る
同じ長江を詠いながら、李白との作品との違いは明白であろう。

韓愈と自居易

中唐になると韓愈や白居易など、官僚としても出世をした詩人が登場する。 文章家でもある韓愈は、その文章と同じく詩も非常に難解だが、細やかな表現が特徴である 。 韓愈のいわば弟子のような存在で、その作風を受け継ぐ詩人に孟郊、買島、李賀らがいる。特に 27 歳で亡くなった李賀は、怪奇な題材を好み、異様な雰囲気の作品で有名である。 白居易はその字の白楽天のほうが、日本では馴染みがあるだろう 。 白居易は韓愈とは異なり、平易な言葉を用いて作詩を行なった 。 玄宗と楊貴妃の悲劇を詠った『長恨歌』は、七言百二十句の長編である。
後宮佳麗三千人 後宮の佳麗三千人
三千寵愛在一身 三千の寵愛一身に在り
金屋粧成矯侍夜 金屋粧い成って矯夜に侍り
玉楼宴罷酔和春 玉楼宴罷みて酔いて春に和す
宮廷の華麗さと玄宗の楊貴妃への寵愛の深さが感じられるが、この後、安史の乱の勃発による 2 人の悲劇的な末路が詠われる 。 白居易の盟友に元稹、劉禹錫がおり、柳宗元も独自の詩風で知られる。


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「中国百科 文化・芸術」第10章文学 「現代中国の作家たち」

4-10.01 現代中国の作家たち

この節の表題の「現代中国の作家」というカテゴリで見た場合、最大の影響を与えた人物は魯迅を置いて他はない。

20世紀前半:革命と戦争の時代

  • 魯迅(1881~1936年)は、浙江省の古都、紹興の官僚の旧家に生まれた。少年期に生家は没落し、給費制の学校を経て日本へ留学した。はじめは医学を志したが、中国民衆の覚醒への道を求めて文学に転じた。
    1918年、口語体で書かれた中国初の短編小説『狂人日記』は、「人が人を食う」儒教イデオロギーに絡めとられた人間の、「子どもを救って…」という祈りで終わる。
    『阿Q正伝』では、日雇い農民の阿Qが精神勝利法(現実生活での敗北を心の中で理屈をつけ勝ったことにする思考法)を重ねるうちに、処刑されてしまう。また、数多くの雑文・雑感を発表し、時の権力と闘った。
    紹興の文化に根ざした散文『朝花夕拾』『野草』も奥深い魅力がある。
  • 四川省出身の巴金(1904~2005年)は五四運動の影響を受け、大地主の生家を離れた。
    その体験から、旧家の大家族制の下で苦悩する三兄弟を長編小説『家』に描いた。『寒夜』では、抗日戦期の重慶に生きる弱者の哀しみが胸に迫る。
    文革で他の作家と同じく迫害されたが、文革後、自らを単なる被害者ではなく加害者だとして、深い内省と批判を『随想録』(1978-1986)に綴り、文革博物館の建造もよびかけた。(1985年国立現代文化館)
    1977年には、中国作家協会主席も勤めている。
    激流三部曲: 家・春・秋
    愛情三部局: 霧・雨・電
  • 老舎(1899~1966年):満州旗人(清代の軍事社会凪織、旗に属する満州人)の父が戦死し貧しい家庭に育った。
    北京の人々を哀感漂う筆致で活写した『駱駝祥子』、『四世同堂』がある。中華人民共和国で人民芸術家と称されたが、文革で紅衛兵の暴行を受けた後、亡くなった。
  • 丁玲(1904~86年):『莎菲女士の日記』で愛と性、自我に切りこんだ。国民党に夫を処刑され自身も幽閉を受け、のち解放区へ脱出した。
    短編小説『霞村にいた時』は、慰安婦にされながらも中国のために密偵を果たした女性の、明日への一歩を見つめた作である。 
  • 苗族など水辺の民を措いた沈従文『辺城』、
  • 日本軍の中国東北地区侵略で故郷を追われた粛紅の『呼蘭河の物語』(注:呼蘭河:黒龍江省、松花工の支流)
  • 茅盾の壮大なリアリズムの長編『子夜』
  • 上海を措いた張愛玲『傾城の恋』
  • そして聞一多や朱日清の詩作も、民国期の秀作として見逃せない。
  • 解放区では超樹理『小二黒の結婚』が歓迎され、のちに人民文学のシンボルとなった。

20世紀後半の改革開放から21世紀へ

文学に強い抑圧がかかった50年代から70年代を経て、80年代には多様な作家の才能が花開いた。
  • 右派のレッテルを貼られて約20年間執筆の機会を奪われた王蒙は、人物の意識の流れに沿って時空を移動する手法で『胡蝶』に自己の政治的運命への内省を反映した。
  • 両親が政治に翻弄され幼少期から孤独だった残雪は、『黄泥街』などグロテスクで不条理な世界に読者を誘う。
  • 文革中に知識青年として農村で生活した韓少功の『爸爸爸』
  • 文革期社会への省察に満ちた王小波『黄金時代』、
  • 上海を活写する王安億『富萍』
  • 阎連科:『丁庄の夢』(エイズ問題を描いた)
  • 余華:『活きる』も読者を魅了する。
  • 劉賓雁『人妖の間』、
  • 陳桂棣・春桃『中国農民調査』など、ルポルタージュの成果も大きい。
  •  贾平凹など、農民出身の作家も活躍がめざましい。
  • 2012年ノーベル文学賞に輝いた莫言は、1955年に山東省高密の村に生まれた。飢餓と抑圧にさらされている農村から脱出するため解放軍に入隊し、創作を始めた。 『透明な赤いカブ』、『赤い高梁』(後に映画化)、『蛙鳴』など、「幻想的なリアリズムで民話と歴史、現代を紡ぐ」小説が評価されている。
  •  21世紀の若手作家では、ブロガーの韓寒や、ライトノベル作家の郭敬明、古典の素養も豊かな笛安などが活躍している。

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2017年1月28日土曜日

「中国百科攻略 文化芸術編」第11章映画 「中国映画の改革開放」

中国映画の改革開放

中国映画の復興が始まる
毛沢東が1976年9月9日に病死した。江青をはじめ文革で猛威をふるった四人組の逮捕とともに文化大革命が終息。中国映画の復興が始まった。江青たちの陰謀・罪悪の告発が行なわれる一方で映画人たちは農場から辺境から監獄から撮影所に戻ってきて名誉を回復された。

“傷痕映画”
1976年11月から1977年10月には上映禁止映画の90本が復活、日本映画など外国映画も上映され、のベ128億8000万人が映画を見た。映画作りが始まり、「演劇の杖を捨てろ」「現代の映画言語を創れ」という発言が映画を動かす。文化大革命の苦痛を描く“傷痕映画”と言われる作品が生まれた。
  • 日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」は2800回上映されて2700万人が見た。主演高倉健はこれより中国で人気が出る。
  • 1977年の四人組との戦いを描く「十月の風雲」、女優謝芳が復帰した「涙痕」や「巴山夜雨」などがある。
  • その代表作とも言えるのは建国後監督デビューした第三世代の謝晋監督の「天雲山物語」「牧馬人」「芙蓉鎮」だ。反右派闘争から文革までの20年、無実の罪の犠牲者を描き、迫害を告発して人々の涙を誘った。

中国映画最高の年
 1978年に思想解放の改革開放路線が打ち出され、1979年は中国映画最高の年となった。観客のベ293億1000万人、入場料収入20億元以上。まだテレビもなく映画は嬉しい娯楽となり生きる喜びとなった。

  • 生き別れとなった母子が戦場で再会する「戦場の花」や、
  • おびただしい犠牲が出る戦いの悲惨を描く「今宵星はまたたく」、
  • 兵士の愛情を描く「帰心矢の如し」、
  • 恵まれない医師夫妻の苦しみを訴える「人、中年に至る」などに感動した。
  • 76年の天安門事件を背景にバイオリニストの初恋を描いた呉天明、滕文冀共同監督の「生活の顫音」では建国以来初めてのキス・シーンを見せて観客をどきどきさせた。 
  • 寮の中で描く「鷹山恋」はファッションの華やかさで若者をひきつけた。
多種多様な作品
 1980年代に入ると、文学の映画化が盛んになって茅盾「真夜中」、老舎「茶館」と「賂舵の样子」、魯迅「傷逝」と「阿Q正伝」などが撮られた。

  • 第五世代を育てることになる呉天明は「人生」「古井戸」で農村青年の生き方をとらえ、
  • 女性監督黄蜀芹の「舞台女優」、張暖忻の「青春祭」、それに呉○(貝編+台)弓の「北京の想い出」、
  • 謝飛の「黒い雪の年」、胡柄榴の「郷音」などが文革で挫折した第四世代監督がリアリズムタッチで人間性を追及する手腕を見せた。
  • 喜劇映画「ピンぼけ家族」、スパイ映画「保密局の銃声」、武芸もの「少林寺」、SF映画「珊瑚島上の死光」や少女の自己主張をとらえた「紅い服の少女」と多種多様。
  • 1982年には三園連太郎が孫道臨と共演した日中合作映画「未完の対局」も撮影された。
  • 「慮山恋」に主演した張瑜のような一夜で超人気アイドルも生まれるような時代となった。
蒋介石も登場した
 労働者、農民、兵士のための映画というこれまでのワクから、なによりも人間らしさを描いてその苦悩と喜びの感情を掘り下げるようになった。
  • また歴史を描く「西安事件」では初めて蒋介石が登場。全面否定されていた国民党の指導者を毛沢東と対等の歴史人物として措くといった大変化も起こった。
  • 日中戦争の戦場を真正面からとらえた「血戦台児荘」では国民党司令官李宗仁の指揮と将兵の奮戦を見せた。
“改革開放”後の2008年までの30年間に4522本の劇映画が生まれた。
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「中国百科検定攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「文化大革命と映画界」

文化大革命と映画界

 文化大革命はここに掲げるように、映画界においても、その他色々の分野においてもあらゆるものを壊滅させた。これに対して、歴史的評価は依然として不完全なままの状態と言っていい。また、文化大革命の中で、日本にもたらされた「暴虐の嵐」の傷が癒えているわけではない。我々にとって、あの文化大革命はいったいなんだったのだろうという検証も忘れてはならない。
文芸の命を“革”す
 1966年5月16日、毛沢東が政権を奪い返す政治闘争のために発動した文化大革命によって映画界は壊滅する。映画女優だった毛沢東夫人・江青は映画界攻撃によって文革の成果をあげようとした。江青は66年2月に林彪の委託で上海で開かれた部隊文芸工作者座談会で建国以来「十七年の映画はすべて毒草である」ときめつけた。

文化大革命の非文化的狂乱

  • たとえば「舞台の姉妹」は「ブルジョアの個人奮闘を称賛。階級闘争を否定、30年代の映画を蘇らせるもの」と批判。
  • 66年5月には「十七年映画は反党反社会主義の毒草。錯誤路線を宣伝、反革命分子の復活。軍隊の古参幹部を醜悪化し、男女関係を描く。中間人物を描く」と攻撃。

 江青のこうした批判を根拠に映画人を否定しその地位を奪った。
  • 長春、北京、上海、すべての映画制作所は軍隊、労働者の“革命派’’に支配され、映画製作は中止、追及、闘争の場と化した。
  • 監督、脚本、俳優、映画人たちは“走資派”“反動的権威”“特務”としで仕事を奪われて吊るし上げられ、暴力、監禁、投獄、強制労働と迫害された。
  • 北京の映画大学は廃止、映画雑誌は全て廃刊、映画資料館のフイルム、資料は廃棄、十七年映画600余本の90%以上が“毒草”として上映禁止になり、1966年から72年まで「地雷戦」「地道戦」「南征北戦」の3本しか見ることはできなかった。

革命模範劇映画
 1970年代に入って、京劇やバレーの革命模範劇の舞台をそのまま撮影して革命模範劇映画ができた。
  • 革命京劇の「紅灯記」「智取威虎山」「沙家浜」「奇襲白虎団」「海港」、
  • 革命バレーの「紅色娘子軍」と「白毛女」「交響音楽〈沙家浜〉」である。
    8億の中国人は8本の革命模範劇映画だけを繰り返し見せられた。
    • また戦争映画などの再映画化もされて「渡江偵察記」や「南征北戦」など6本がカラー化された。“三突出”という英雄の中でも最も英雄的なものを描くという原則が正常な映画創作を壊した。

    文革劇映画
     さらに文革映画という劇映画が撮られた。74年春節に長春映画が「艶陽天」「青松嶺」「戦洪図」「火紅の年代」を一挙に公開した。長年、3本の戦争ものと8本の革命模範劇映画の繰り返し上映にあきていた大衆は劇映画に喜んだ。階級闘争の政治的道具として「創業」「春苗」「閃関的紅星」「決裂」など76年までに40本も撮った。強制労働農場などで働かされていた“反革命的”監督の謝晋や謝鉄麗、崔嵬たちが撮影所に呼び戻されて撮影を命じられたが、監督の意見などは政治的に無視された。

    文革の犠牲者たち
     こうした中で、上海映画では1000人のうち309人の芸術家、技術者が迫害されて16人が非正常な死に方をした。北京映画では800余人のうち500~600人が監禁、吊るし上げられ審査され、反革命として処分されたもの300人、迫害死したもの7人。長春映画では300人近い人たちが臨時強制収容所に不法監禁され、552人の芸術、技術管理部門幹部が寒村に追放された。
    • 女優の上官雲珠、超慧深などが自殺、
    • 劇作家で国歌の作詞者田漢、監督の鄭君里は獄死、
    • 蔡楚生は病院の廊下で惨死。
    • 監督の応雲衛は惨死、
    • 徐覇、迫害死、
    • 脚本家の海黙は殴殺。
    • 文化部副部長だった夏衍は8年の獄中で殴打され片目失明、片足不自由になった。
    • 二枚目スター趙丹は5年投獄、
    • 中国のガルボと言われた女優白楊も5年投獄。
    • 謝普監督が強制労働中に両親は自殺。2人の障害児も迫害された。 


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    2017年1月27日金曜日

    「中国百科攻略ノート 文化芸術編」 第11章映画 「無声映画からトーキーに」

    無声映画からトーキーに

    中国映画がトーキー映画に
     1930年、12万元出して明星影片が胡蝶主演で中国初のトーキー映画「歌女紅牡丹」を撮った。完全トーキーではなくデスクトーキー版で会話や音楽が聞こえるだけだが、中国映画もしゃべった。京劇世界の男女の愛の変遷を描き、人気女優胡蝶の声と「四郎探母」など京劇の名場面を聞かせた。
    • 本格的なトーキー映画は1934年の電通の応雲衛監督「若者の不運」で袁牧之と陳波児が共演、聶耳作曲の「卒業歌」が効果をあげた。

    人気スター阮玲玉の登場
     無声映画の人気スターが続々登場。そのトップは1910年生まれの阮玲玉だった。個人的生活を元夫に訴えられ、新聞で攻撃されて1935年3月8日に25歳で服毒自殺。ファンはついにその声を聞くことができなかったが葬儀には1万人も参列した。魯迅も一文を書いてその死を悼んだ。
    • 1927年に明星の「掛名的夫妻」でデビュー。
    • 28年に「白雲塔」で胡蝶と共演し、30年に聯華影業に移ってアメリカ帰りの孫喩監督の初めての脚本で撮った「故都春夢」で金焔と共演して人気上昇。それ以来、5年間に蔡楚生監督の「新女性」まで16作品に主演した。34年の「女神」で最高の演技を見せ、自殺した女優文霞がモデルの「新女性」で鄭君里と共演して女の怒りを表現。踏みにじられる女性から主張する女性まで演じた。

    胡蝶
     もう一人のスターは胡蝶。武侠映画「火焼紅蓮寺」に四集から出演して売れっ子となって、阮玲玉と人気を二分。
    • 1930年張石川のトーキー映画「歌女紅牡丹」で初めて美声を聞かせた。
    • 現実を描いた「狂流」に主演し、1935年、中国映画界を代表して外国に行った最初の女優となった。
    • 胡蝶はモスクワ映画祭に蔡楚生監督の「漁光曲」を持っていき中国映画に初の外国映画賞をもたらした。「漁光曲」は、漁師の姉弟が貧しさと闘いながら生きる姿を措いたリアリズム映画で“野良猫”と言われた王人美がりりしくて主題曲が流行、上海の映画館で84日間連続上映という新記録を作った
    趙丹
     男優では趙丹が二枚目スターの代表となった。1933年に明星に入社、「琵琶春怨」で映画主演、34年トーキー映画「女児経」でその声を聞かせた。労働者の男らしさを印象づけたのは金焔で、1935年の孫喩の「大いなる路」で、道路工事労働者の集団のリーダーを演じた。迷いつつも行動していく苦悩する知識人を演じて共感を広げたのは袁牧之で、許幸之監督の「風雲児女」は1931年9月18日に日本が引き起こした満州侵略を間接的に描いた。ラストの田漢作詞、聶耳作曲の「義勇軍行進曲」が抗日の呼びかけとなって響いた。1949年には中国の国歌となった。
    • 1937年、沈西苓の明るいが哀しい青春喜劇「十字路」で白楊と共演、軽妙に主題歌を歌った。
    • また袁牧之の「街角の天使」で“金色の声”と言われた少女歌手周歌と共演、上海の底辺に生きる青年像をユーモラスにきびしく演じて明日を感じさせた。 
    検閲
     国民党政府の検閲をくぐって暴力団の映画会社へのぶち壊しといった暴力行為にもさらされて映画人は生命がけで映画を撮影した。1937年には馬徐維邦、金山主演の「深夜の歌声」のように「オペラ座の怪人」を模した恐怖映画の形をとって圧政に抗し、人間復活を訴える作品も生まれた。


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    2017年1月26日木曜日

    「中国百科攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画 「戦時下の映画」

    戦時下の映画

    戦争は中国映画をこわす
    1937年7月7日、日中戦争が勃発、8月18日には上海にも戦火が及び中国映画の繁栄は消えた。
    • 明星は日本軍の砲火で破壊された。
    • 趙丹、白楊たちは11の抗日救国演劇隊に分かれ、抗日を宣伝しつつ武漢などに撤退、
    • 胡蝶、蔡楚生たちは香港へ避難、
    • 張石川たちは“孤島化”した上海の租界に残留と映画人たちはばらばらになった。
    • さらに39年、親善映画に協力しなかった明星は日本軍に放火されて本社も撮影所も全焼した。

    映画界
    中国映画界は.武漢・垂慶の国民党支配区、延安の抗日根拠地、“孤島”となった上海租界、日本占領区と分断。抗日のために国民党と共産党とが再び手を結び、文化協力も展開。国民党政府の軍事委員会政治部副部長に周恩来が就任して宣伝部門担当の同部第三庁の長に郭抹若が入った。 
    • 映画演劇部門は田漢が指導することになった。
    • この第三庁の下に中国電影製片廠が生まれて1938年8月武漢の陥落までに国防映画として史東山監督、舒绣文、魏鶴齢の「我らの土地を守れ」、応雲衛監督、袁牧之、陳波児の「八百壮士」などが撮られ映画館や移動映写隊で上映、人々を鼓舞した。
    • 武漢失陥後重慶に撤退した映画人は「勝利行進曲」「中華児女」「東亜之光」「日本間諜」「塞上風雲」などを作った。 
    • 周恩来の特命でオランダの映画監督ヨリス・イヴェンスからの映画器材を受け取った袁牧之は延安に入った。1938年にカメラマン呉印咸たちと延安電影団を結成、「延安と八路軍」などの記録映画を撮った。


    「火焼紅蓮寺」と国策会社
    • “孤島”となった上海では張石川が10年間上映禁止だった「火焼紅蓮寺」を取り戻して再上映した。曹禺の「雷雨」などを演出し、「西厢記」などを撮影した。
    • 1939年に卜万蒼監督が「木蘭従軍」を撮った。病父にかわり男装し外敵と戦う女性を新人女優・陳雲裳が演じて対日抵抗の意思を感じさせて85日間も連続上映された。
    • 「木蘭将軍」のあとを受けて再び古装映画が盛んになって「岳飛」「太平天国」「西施」「孔夫子」などが撮られ他.
    • 喜劇映画も活発で、漫画家葉浅予の漫画「王先生」が映画化された。1935年の「王先生の秘密」から始まったものが、「王先生の正月」などと続いて、40年までに「王先生食事難」など10本以上も出て最長のシリーズとなった。
    1941年、太平洋戦争勃発とともに上海の外国租界も日本が占領。10余あった映画会社は中華聯合に統合された。43年には日本と合同の国策会社、中華電影聯合が成立。
    • アへン戦争100年記念に林則徐の一代記のようで李香蘭も出演する「万世流芳」が撮られた。40年だけで67本中54本も古装映画が撮られた。 
    • 香港では50も大小映画会社があったが、広東語の娯楽もの中心だった。
    • 上海から来た蔡楚生らが、「孤島天国」「白雲故郷」などの抗日映画を撮り、40年の83本中40%を抗日映画が占めた。
    • 41年太平洋戦争勃発とともに香港は日本軍に占領され映画人はそこから脱出。女優胡蝶も日本側から協力を求められたが断り続けて抗日ゲリラの手引きでひそかに広州に入り、重慶に脱出した。

    満州映画協会設立
    満州国となった東北地区で1937年に満州映画協会が設立された。日本から監督の内田吐夢や木村荘十二たちも来た。45年まで李香蘭の「蜜月快事」「迎春花」や国策映画「壮士燭天」など100本の劇映画と190本前後の記録映画が製作された。

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    「中国百科攻略ノート 文化・芸術編」第11章映画
    「戦後映画の復興と対立」

    戦後映画の復興と対立

    国民党政府下の接収

    日中戦争で勝利した中国には平和が訪れず内戦が始まった。重慶から来た国民党政府は、北平(北京)、上海の映画制作所を敵性映画産業として接収、時価100億元という映画制作拠点と資産を入手した。そこで撮影された国民党の官製映画は「忠義之家」、「天字第一号」、「聖城記」などで国民党特務やアメリカ聖職者の対日抵抗活動を賛美した。国民党政府は検閲を復活して1945年10月から48年9月までに162本の国産映画のうち48本がカットされた。また、米華友好通商航海条約によってアメリカ映画が氾濫、45年8月から49年5月までに1083本も輸入された。


    内戦下の映画
     上海に戻ってきた映画人たちも映画製作に取り組んだ。
    • 1947年2月に鄭君里たちは聯華新芸社を結成、史東山監督の「八千里雲と月」を発表。8年にわたる戦争下の苦難をリアルに描いて共感を広げた。
    • 続けて民間映画会社崑崙影業公司と聯華は合併、1947年に蔡楚生と鄭君里が共同監督で陶金、白楊の「春の河、東に流れる」を撮った。中国人の戦争体験を庶民の困難な生活と垂慶の退廃を対比して描いて3カ月も上映され70余万人が見た。
    • 1948年に沈浮監督の「万家灯火」は藍馬と上官雲珠で庶民一家の貧困生活を措き、
    • 同じ年に張楽平の人気漫画「三毛流浪記」を厳恭監督が映画化して浮浪児が上海の巷で大人たちに翻弄されていく悲喜劇を見せた。
    • 1949年の鄭君里監督の「からすとすずめ」はアパートに住む役人、教師、軍人などを通して社会縮図を描き現実を風刺した。これなどは検閲用と撮影用のシナリオを分けて検閲をくぐって撮影された。
    • 40年から5年間、新疆省ウルムチの監獄に捕らわれでいた趙丹が生還、「進かなる愛」「三人の女」で秦怡、黄宗英などと共演した。
    • 1946年に設立された文華映画では1947年のゴーリキーの「どん底」を翻案した佐臨監督の「夜店」や作家張愛玲が脚本・監督した「太太萬歳」などがある。
    • 1948年に代表的な芸術映画として高い評価を勝ち取った費穆監督の「田舎町の春」は戦後の小さな町の旧家での5人の男女の愛情の心理を描いたが切ない。
    • 茅盾原作で黄佐臨、石揮の「腐蝕」は特務に身を落としていく女性の内心を鋭くとらえた。また、石揮は「私の一生」を監督・主演して小人物の悲哀の生涯を措いた。

    東北映画制作所
    • 1945年8月に長春の旧満州映画協会をいち早く接収したのは延安から入った俳優の田方たちだった。
    • 1946年5月に長春を支配した東北民主聯軍が北への撤退とともに旧満映の膨大な器材と人員を黒龍江省興山に疎開。日本人技術者と家族も多数行動を共にした。
    • 1949年10月に東北映画制作所が興山で成立、ソ連から帰ってきた袁牧之が初代所長になった。
    • 一方、長春映画制作所では金山監督が1947年に「松花江のほとり」を張瑞芳主演で撮った。東北が日本に侵略されていく悲しみを松花江ほとりの一家の変遷を通して真正面からとらえたもので、その主題歌とともに悲痛さが広がった。
    • 興山の東北映画制作所では記録映画やニュース映画「民主東北」、アニメーションなどを撮った。

    新しい国づくりの中で

    国内戦争の息苦しい状況の中で映画は復興したが、中国の変革進歩か、旧体制維持かと対立した。
    監督や俳優は内戦と飢餓と暗黒の中で光を見出そうと庶民の人生と社会状況を見つめるニューリアリズム映画を生み出した。


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