2019年2月10日日曜日

お茶は人類最高の「飲み物」であるし、「薬」でもある

4.12-09 世界史を動かしたお茶

 この表題を見て、何をそんな大層なと思われる方も多いと思いますが、1842年に当時の大英帝国と清との間で戦われた史上最悪の戦争の背景になったのが、実はこの「お茶」だったのです。当時イギリスはお茶を中国から輸入していました。ところがイギリスには売るものがなく、著しい貿易不均衡となりました。当時は銀で決済していたため銀が不足し、困ったイギリスは、こともあろうことか、麻薬のアヘンをインドで生産し、それを清に売りその代価でお茶を買うという三角貿易を仕掛けました。これには清は当然ごとく反発し戦争になりました。これがアヘン戦争です。これから中国は約100年間、外国の侵略に苦しむことになります。つまり「お茶」世界史を動かす大きな原因となりました。

お茶の起源
 中国で生まれた茶は、今では数百種類にもなるといわれています。お茶の発見は非常に古く、伝説上の人物「神農」(紀元前3400 年頃)のよるものだとされています。神農(炎帝神農)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという言い伝えで、医学、農業の神として今なお人々に敬われています。


 伝説によると今日の本草学の始祖と言われる神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと山野を駆け巡り、野草を食べては、食べられる植物を人々に教えていた。時には毒草にあたり苦しむが、神農は茶の葉を噛んで解毒したと伝えられている。しかし、最後は自ら試用した毒草のため命を落したといわれている。
 唐の時代(7 一10 世紀)に茶聖と呼ばれる陸羽が著した世界最初の茶専門書『茶経』 の中では、一之源(第一章、茶の源)に[茶者南方之嘉木也」と記され、茶が中国の南方の木であると述べられている。

お茶は薬草だった
 中国には「医食同源」という言葉がありますが、中国では昔から、お茶は薬草としても位置づけられ、さまざまな薬としての使い方が開発されています。
 
中国茶の分類
 茶樹から若芽を摘み取り、各種の茶葉に製茶する。製茶した茶葉の種類を大きく分けると 基本茶類(1 次加工茶)と再加工茶類(2 次加工茶)の2 種類になる。
  • 基本茶類には緑茶、白茶、青茶、紅茶、黄茶、黒茶があり(6 大分類茶)、発酵の度合いで種類が分かれている。
  • 再加工茶類には花茶、緊圧茶、粋取茶、果味茶、茶飲料、薬用保健茶などがある。
そして基本茶は、以下の六種類に大きく分類されるという

  1. 緑茶(不発酵茶):中国茶の中で最も古い歴史を持っ。中国茶生産量の60 一70 %。龍井、碧螺春、黄山毛峰。
  2. 白茶(軽微発酵茶):中国茶の中で特別な名品。芽と若葉の一芯二葉すべてに白豪(産毛)が生えているので、できたお茶は全体が白豪に覆われているように見える。 白豪銀針、白牡丹。
  3. 青茶く半発酵茶):お湯を注ぐと、茶葉の内側は緑色、縁が赤色になるので、「緑葉紅鍵辺」とも呼ばれる。半発酵茶で、飲んだ後も香りが残り、余韻が楽しめる。 安渓鉄観音武夷大紅抱、凍頂鳥龍茶。
  4. 紅茶く完全発酵茶):紅茶は種類が多く、その中でも正山小種は400 年以上の歴史を誇る世界で最も古い紅茶である。世界3 大紅茶は、インキーマンドのダージソン、スソランカのウバ、そして安徽省の祁門紅茶。 祁門紅茶、損紅、正山小種。
  5. 黄茶(軽発酵茶):製茶工程が他のお茶とは異なり、「簡貴」という黄茶独特の工程がある。高温多湿にすることで、茶葉の成分に化学変化が起こり、「黄湯黄葉」(黄色い茶湯、黄色い茶葉)という悶黄の特微が作られる。 君山銀針、雷山黄芽。
  6. 黒茶(後発酵茶)・茶葉が黒褐色をしていることからその名がつけられた。発酵茶で、年月が経っほど味や香りが芳醇になる。黒茶は辺境地域の少数民族に愛飲されるので辺鎗茶とも呼ばれる。雲南プーアル普再茶、六塗茶。
 これ以外にも、先に述べた再加工茶があり、さまざまな効能を持ったお茶が開発されている。お茶は単なる楽しみではなく、健康を維持するため、日常生活に重要な役割を果たしている。
 私自身で経験したことであるが、上海に行ったとき、中国の友人が、中華料理を食べた後の油でべとでとになった皿に、飲み残していたプーアール茶を注いだことがある。その途端油が白濁したのには驚いた。つまりそれは油が分解したことだと教えてくれ、プーアール茶の威力を見えつけられた。またその友人は中国人はプーアール茶を飲むから、脂っこいものを食べてもメタボにならないのだといたがさもありなんと納得した。



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2017年7月6日木曜日

「中国百科 文化スポーツ編」第3節 囲碁

4-13.03 [中国百科 文化・スポーツ」 囲碁

囲碁
 人間と人工知能「棋士」との闘いは、中国・浙江省で開かれた“フューチャーGOサミット”(Future of Go Summit)で5月23日、25日、27日に行われた。その2017年5月27日の最終試合では、世界最強の棋士と称される柯潔(カ・ケツ)がグーグル傘下のDeepMindが開発した人工知能(AI)「AlphaGo」に負けを喫して幕を閉じた。この結果により、柯の完全な敗北が決まった。

 この勝利をどう見ればいいのか? 人間は自ら作り出した人工知能に勝つことは出来ないのか。人間が人工知能によって制覇されるのではないかという「恐れ」さえも抱いてしまう。
 これについて、AlphaGoを開発したDeepMindのCEO、デミス・ハサビスは、サミットの開会式で「柯潔が勝とうとAlphaGoが勝とうと、それは人間の勝利である」と語った。AIはあくまで人間が使う道具であり、これまで見通せなかった領域に人間を導いてくれる「ハッブル宇宙望遠鏡」のような道具となるのだと強調した。そしてそれは、囲碁の世界においても同じだという。

囲碁の誕生から今日まで
  囲碁は中国の唐代に日本に伝来したと言われている。中国では頭脳のスポーッとして扱われている。たしかに囲碁は知力と精神力の格闘技なのかもしれない。囲碁は現在、世界約 70 カ国で打たれており、プロ制度が設けてられているのは中国、日本、韓国、台湾のみである。起源から現在に至るまで、アジアが常に囲碁の中心にいる。
 その歴史は古く、伝説の時代三皇五帝の時代に早くも碁が教育に用いられたという言い伝えもある。
 春秋時代からは、孟子の 『孟子』 、孔子の『論語』にその記載がある。2002年には、前漢時代の墓から最古の碁盤が発掘されている。陶製で17路だっただろうということである。
 そして、南北朝時代、碁盤は17 路から19 路に拡大、囲碁の黄金期を迎え、囲碁の全国大会まで開かれている。 それから、中国では碁は脈々と打ち続けられ、文化大革命のときに一時迫害されたこともあったが、復活してからは、日中の囲碁大会もあり、中国は王座に居座り続けている。


碁盤の中から世界の網の目に
 しかし、DeepMindをその傘下に置いたGoogleは同様の企業を吸収合併し、地球規模の巨大な「AIネットワーク」を構築しようとしていると聴く。巨大な企業が、その金と力に任せ、あらゆるものを呑み込んでしまう可能性はある。人間の英知はその欲望に勝てないのだろうか。未だ制御できている間に、あらゆる国は人々が協力して、コントロールする仕組みを作り上げないといけない時に来ている。




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2017年6月1日木曜日

「中国百科攻略ノート」 映画 「中国映画の黎明」

中国百科検定攻略への道 第4部 文化・芸術・風俗習慣 11 映画編

中国映画の黎明を追加しました。

 中国映画の始まりは上海だった。中国で映画が最初に上映されたのは1896年8月11日、上海徐園でのことだと言われているが、詳細は不詳又中国最初の映画撮影は戯曲だった。
 1905年夏に名優谭鑫培が黄忠を演じる京劇「定軍山」の1段を3日かけて北京の豊泰写真館の劉仲倫が撮った。


劇映画と教育映画
 1913年~1922年 徐々に外国資本による機材を借りての映画が作られ始めた。社会教育のために30本ほどの短編映画が作られたが、まだ萌芽期の様相であった。
 1921年に中国影戯研究社が前年に起こった殺人事件を最初の長編映画「閻瑞生」にしたが商務印書館影片部が代行撮影した。同年、上海影戯公司の「海誓」は、画家但杜字が近代的な殷明珠で西洋式生活、服装、感情の自由恋愛を措いた。殷は愛情映画最初の女優となった。
 1922年3月、張石川、鄭正秋、周剣雲たちは中国人の映画会社・明星影片公司を創立、外国人を使ってチャップリンを模した喜劇「滑稽大王游華記」を撮った。
 張石川は1923年に初の女優となる王漢倫と鄭正秋の息子小秋とで「孤児救祖記」を撮って大入りとなり明星の土台を作った。


商業映画化が進行
 1923-25年にかけて全国で175の映画会社が設立された。そのうち聯華、長城、神州、民新、大中華、天一、上海など141社は上海にあった。5年間で144本の映画が作られ、試行錯誤の時代が続いた。外国映画のまね、封建的な状況描写、人道主義的な傾向、愛情、恋愛、婚姻の自由の追及、などが試みられた。映画の商業化が進み競争も激化した。

古装映画と武侠映画
 1927-28年には古装(時代劇)映画ブームが起こり、中には明星影片のように武侠神怪映画といって迷信の影響の強い荒唐無稽の映画なども多く作られ、社会問題にもなった。
 明星はこれによって多額の赤字を埋めた。迷信の影響が強く、青少年が家出し出家といった社会問題になり、検閲によって上映禁止になる。武侠神怪映画は各社に広がって1931年まで240本、1929年だけで85本も粗製濫造された。


「中国映画界の誕生」に係る補足説明は ☜ こちらをクリックしてください

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2017年3月28日火曜日

「中国百科 文化編」 10.03 世界に広がる華文文学

世界に広がる華語文学

世界に広がる华文(華文)文学
最近では中国から見た海外の中国人作家の文学を「海外」というのではなく、「世界」という言葉を用いて、「世界華文文学」と表現している。
東南アジアにはそのほかにタイ、フィリピン、インドネシア、ブルネイなどにも華文で創作する作家たちが華文作家協会を結成し、作品を載せる華語の新聞、雑誌も発行されている。
オーストラリア、ニュージーランドにも華人作家はいる。欧米には長年その土地に住む華人による華文文学の他に、新たに中国を出、エミグラント(移住者)として在住している高行健や北島のような作家、詩人がいる。


シンガポール・マレーシア
シンガポールの華人人口:400万人を背景に、「新華文学」
マレーシア華人人口:700万人 「馬華文学」と表現している。
東南アジアにはそれぞれの国で活躍する華人たちが華文作家協会を結成している。
シンガポールを代表する作家 黄孟文
マレーシアを代表する作家 朶拉
マレーシアでは華語環境を維持するのはシンガポールよりも厳しく困難であるが、タイの司馬攻とともに中国でも刊行されている。


欧米・台湾に広がる華語文学
欧米・台湾を代表する作家: 劉賓雁、北島、高行健、李昴、白先勇
新しく移住した、既に一定の実績を持つ作家が中心で、東南アジアの華文文学とは性格を異にする。


 欧米
  • 1960年代から90年代にかけてアメリカのアイオワ州立大学の創作センターを台湾の白先勇、瘂弦、中国大陸からは王蒙、劉賓雁などが訪れ、滞在した。このうち劉賓雁はアメリカで生涯を終えた。
  • 文革後の作家劉索拉、阿城はアメリカに在住、台湾からアメリカに移住した聶華苓、於梨華の2人の女性作家はそれぞれ代表作をアメリカで書いている。
  • 『今天(TODAy)』(1978~80年刊行の地下文学雑誌)の創始者北島はイギリスに渡って『今天』を再刊し、同誌に発表した作品を詩集『天涯にて』にまとめて出版した。
  • 海外でもっとも成果を上げた華文作家はノーベル文学賞を受賞した高行健である。『ある男の聖書』と『霊山』はノーベル文学賞受賞作である。
    『ある男の聖書』は、今は外国で暮らす劇作家の中国にいた頃のさまざまな体験と現在のエミグラントとしての生活が描かれている。主人公に中国にいたころを「彼」という3人称を用い、現在を描く時は「おまえ」という2人称を使うという手法で書かれた作品である。
 台湾
 台湾文学は通常華文文学に含めないことが多いが、五四以来多くの優れた作家、作品を生みだした。
  • 李昂:  フェミニズム文学の代表で、虐げられた女性が暴力をふるう夫を殺害する『夫殺し』を書いた
  • 白先勇: 男性の同性愛者を描いた『罪の子』を発表した
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2017年3月7日火曜日

変文と元雑劇と明清の戯曲

変文から元雑劇をへて明清の戯曲へと広がる文芸の世界

文人の作る文学の主流が文言(文語体)であったのに対し、白話(口語体)の文学は「俗」と見なされ、当時はあまり評価されなかった。しかし特に元代以降 1つの文化として大きな広がりを見せたことには間違いがない。

変文から宋の芸能まで
[変文」は、唐代中期に盛んとなった韻文と散文を組み合わせた語り物で、元は布教のため仏教僧が民衆に絵を見せながら語るものだったが、後に仏典と関係のない題材も扱われ、 『伍子胥変文』 など歴史物もある。変文は、 20 世紀初頭に敦煙で唐などの古文書とともに発見された。
  • 宋代、都市の発達に伴って、民衆向けの様々な芸能が活況を呈し、雑劇と呼ばれる演劇が人気を博した。金でも、院本と称する演劇が存在したほか、語り物の一種「諸宮調」が行なわれ、董解元 『西廂記諸宮調 』 が現存する。

元雑劇(元曲)
元代、科挙が中止されると、出仕の道を断たれた知識人が雑劇の製作に多く参与するようになり、その芸術性は格段に向上した。雑劇は、通例 4つの「折」すなわち 4 幕に分けられ、また「楔子」と呼ばれる小段が加えられることがある。それぞれの折は、「唱・科・白(うた・しぐさ・せりふ)」から構成される。
  • 後世に最も影響を与えた作品は王実甫 『西廂記』 で、張生と崔鶯鶯の恋物語である。
  • 関漢卿は元雑劇の代表作家で、話し言葉を駆使した素朴な文体、 4折の短編劇に相応しい緊密な構成にすぐれ、 『救風塵』 『賓蛾寛』など、女性を主人公とした作品が多い。
  • 馬致遠の 『 漢宮秋 』 は、王昭君の不幸な物語を題材とする。
  • 他にも殺人事件をめぐる裁判劇である孟漢卿 『魔合羅』 、家庭のいざこざを描いた武漢臣 『老生児』 などがある。これらは明の時代に偏纂された 『元曲選』 によって広く流布した。

明清の戯曲
明代には、5 音階の南方系歌曲を用いる「南戯」が隆盛した。南戯には長編が多く数十段に及ぶものが多い。また主役に限らず、あらゆる役柄がうたうことができ、これらの点が雑劇と対照的である。
  • 元末明初の高明の名作 『琵琶記』 が南戯隆盛のさきがけとなった。
  • 有名な作品としては 「荊劉拝殺」と称され『箭钗记』 『劉知遠白兔記 』 『拝月亭幽関記』 『殺狗記』 の 4大作がある。
  • その後南戯は低迷期に入るが、後の崑曲につながる[崑山腔」が創始され、梁辰魚 『浣紗記』 などが人気を博した。
  • 明代最高の劇作家は湯顕祖で、 『 紫钗記 』 『 牡丹亭還魂記 』 『 南柯記 』 『邯郸記 』 の 4 作品は、みな夢をテーマとし、彼の書斎名をとって「玉茗堂四夢」と総称される。特に 『牡丹亭還魂記』 は明代南戯の代表作で、 2 人の男女が夢で恋に落ち、最後は現世で結ばれる、という内容を美麗な文辞で綴る。
  • また明代南戯の選集に、明・毛晋 『六十種曲』 がある。
  • 清代南戯の傑作は洪昇 『 長生殿 』 と孔尚任「桃花扇 』 である。 『長生殿』 は、唐の玄宗と楊貴妃のロマンスを描いた。 『 桃花扇』 は、作者自らが体験した明末の動乱を題材に実在の人物を登場させた歴史劇である。
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古文復興と八大家

古文復興と唐宋八大家

文の世界では、南北朝時代の骈文の流れは唐代まで続いていた。 しかし骈文から脱却しようとする動きが中唐になって出てきた。

韓愈と柳宗元
韓愈は自然な文体を創出することを主張し、先秦から漢代の文体を模範とした。柳宗元は一生の大半を僻地で過ごしたことにより、その作品は自然や人間を措いたものが多い。彼らの新しい文体は「古文」と呼ばれた。


唐宋八大家
古文運動は韓愈らの時代には主流とはならず、晩唐から宋の初期には骈文が復活する。末代の古文運動は欧陽脩に始まる。後に「唐宋八大家」欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人を、後に」
  • 官僚としてもほぼ頂点を極めた欧陽脩は、科挙制度の責任者になったことも重いし、後進の王安石や蘇軾らとともに、古文を普遍的な文体とすることに成功する。
  • 韓愈を範とした欧陽脩の文がやや難解であるのに対し、蘇軾のそれはさらに自然な趣を持つ。
  • 彼らの文章は後世の規範となったため、後に「唐宋八大家」と称されるようになったのは、欧陽脩とその弟子である曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍の4人に、蘇軾兄弟の父蘇洵、さらに韓愈と柳宗元を加えた8人である。
  • 「唐宋八大家」  欧陽脩、曾鞏、王安石、蘇軾、蘇轍、蘇軾、蘇洵、韓愈と柳宗元

伝奇
南北朝時代に起こった「志怪」のジャンルは、唐代には「伝奇」となっ て受け継がれる。志怪の多くが出来事を記すのみだったのに対し、伝奇は物語としての完成度が高い。さらに時代が下 ると、伝奇のテーマの主流が怪奇な現象から才子佳人の話に移るようになる。なお、怪奇な事象を記した文言小説はその後も受け継がれ、清代には更なる傑作が生まれるようになった。


  • 沈既済の『枕中記』、『任氏伝』、李公佐の 『南柯太守伝』がその代表である。
  • 張鷲の『遊仙窟』は中国では早くに失われたものの日本で長く伝えられた異色の作品である。
  • 白居易の弟の白行簡の『李娃伝』(795年)や元稹の『鶯々伝』が有名である。
  • 清代には『聊斎志異』『子不語』『閲微草堂筆記』などの名作を生むこととなる。
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「中国百科 文化・芸術編」 辞賦と文言小説

中国古典文学の「文」形式

中国古典文学の中心は古来「詩」と「文」とされる 。 ここで言う文とは 文語体(文言)の散文などを指し、口語体(白話)の小説などは含まない。


戦国時代から漢代、南北朝時代にかけて「辞賦」あるいは「賦」と呼ば れるジャンルがあった。宮廷に仕える文人が皇帝や皇族に捧げる文が「辞賦」である。
  • 漢の武帝の時代の司馬相如に「子虚の賦」「上林の賦」という作品がある。壮大な狩猟の様子を描写しつつ漢の皇帝を称え、かつ調 轍で締めくくる内容になっている。
  • 後漢には班固の「両都の賦」、張衡の 「二京の賦」があり、いずれも前漢と後漢の都、長安と洛陽の繁華な様を綴った名作である。
  • この時代に編まれた『文選』は、南北朝時代の南朝梁の昭明太子がそれまでの文学の住作を集めて編んだ選集で、大変価値の高いものである。
志怪
南北朝時代に「志怪」と呼ばれる短編小説が流行した。ただ「志怪」の体裁は統ーされておらず、非常に短いもの、 結末がないものも多い。
  • 東晋の干宝の『捜神記』 や規の曹丕の撰とされる『列異伝』、南朝宋の劉義慶の『幽明録』などがあり、奇怪な出来事を記す。
  • このジャンルは唐代の「伝奇」を経て、清代の『珊斎志異』等に至るまで受け継がれる。
世説新語
宋の劉義慶の『世説新語』は、当時の名土の逸話を集めたもので、「志怪」に対して「志人」小説と呼ばれることもある。
  • 三国志で有名な諸葛亮 ( 孔明 ) の登場する方正篇などがある。
骈文
南北朝時代頃から、文章を4字や 6字で区切って対句の形式とし ( 四六島井傭体)、詩のように平仄を意識した方式が主流となる。そもそも骈文とは対偶法で書かれた文章のことを言う。(べん文)
  • 制約の多い骈文の流行により文章の内容よりも形式にとらわれた不毛な作品も多くなり、これが中唐の古文復興運動へとつながっていく。

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