2017年2月5日日曜日

「中国百科 文化芸術」第12章文学 「豊子愷と漫画」

豊子愷と漫画

中国漫画の誕生
 「漫画」という日本の名称を中国に広めたのは、日本に来た青年教師豊子愷だった。 1921 年に 23 歳の豊子愷は上海から東京に私費留学。美術、 音楽、日本語を学び、竹久夢二に傾倒。帰国後美術教師をしつつ 25 年に『文学週報』 に抒情漫画を「子愷漫画」として発表。同年末『子愷漫画』 出版。それまでは風刺画、寓意画と言われていて、 1919 年に但杜宇の『国恥画譜』などがあったが漫画は日常生活を幅広くとらえて新鮮だった。


抗日の闘いに捧げた漫画

 1927 年、上海で張光宇、黄文農たちは漫画の名称をつけた会を結成。 28 年にその漫画会は大判 2 色刷の週刊『上海漫画』を創刊。多彩な漫画で上海漫画時代を開拓。 30 年までに 110 号出した。1934 年 9 月から 37 年 6 月まで上海で『時代漫画』『漫画生活』 など 19 種の漫画雑誌が創刊された。 36 年には、上海南京路の大新公司で豊子愷も参加した第1回全国漫画展覧会が関かれた日応募作品から 600 点が選ばれて出展、 9000人以上が見た。 ここから華君武、米谷など若い世代が育った。この漫画展は南京、蘇州、杭州などを巡回したが、 37 年、日中戦争勃発。広西省で展示中、日本軍機の爆撃で焼失。上海の漫画家は救亡漫画宣伝隊に加わり、南京、武漢と移動しつつ、抗日漫画 1000 点を描き、 100 囲の展示会を開いた。豊子愷も自宅が戦火で全焼、蔵書、画稿すべてを失い、家族と流浪の旅を続 けた。41 年貴州・遵義で豊子愷は失った漫画424 点を 38 日間で描き直した。恭君武は延安で、豊子盤、張光字は重慶で漫画展を聞いた。

戦後と文化大革命

 1945 年、戦争が終わり、薬君武は東北で、米谷らは上海で漫画を描き、豊子愷は台北や香港で個展を開き絵を売った。 49 年中華人民共和国成立。漫画家たちは全国誌『漫画』に作品を発表した。 60 年豊子愷は上海国画院校長となり、教務のかたわら「源氏物語」などを翻訳。 66 年の文化大革命は漫画家を追放、豊子愷も批判され強制労働下でひそかに「竹取物語」「伊勢物語」を訳した。 1975 年、癌で死亡。 78 年に名誉回復。 80 年 「源氏物語」出版。 2001 年『豊子愷漫画全集』全 9 巻刊行。



中国百科検定攻略「第4部 文化・芸術・風俗習慣」のホームページに戻ります。  

2017年2月4日土曜日

「中国百科 文化芸術編」映画 21世紀に入って

21世紀に入って

大作映画時代
 21世紀になると中国は映画強国をめざして大作映画時代に入った。まさに一皮むけた感がある。
 製作、上映、配給を一体化する中国電影集団、長春電影集団、上海電影集団などが結成された。2001年の興収が9億元だったのに対して、2002年は張芸謀の「HERO英雄」が1億元の製作費で2億5000万元と空前の興収(映画館総収入)をあげた。



第五世代監督の商業映画への変身

 第五世代監督の商業映画への変身に世界は驚嘆した。それが中国映画史三度目の武侠古装映画流行を招いた。 張芸謀は「LOVERSJ「王妃の紋章」と続け、陳凱歌も「PROMISE プロミス」で応じた。喜劇の冯小剛も「女帝 エンペラー」で参加。アクション映画の世界は大スター、大題材、大製作費、大市場とこれまでにない様相を持った。香港、台湾などからの資本の流入大きく商業大作の撮影が可能となった。

興行収入増大

家族や仲間を描く生活リアリズム映画は健在。
 スパイ映画「風声」、妖怪映画「画皮」と新分野作品がヒットし、ホラー映画も出現した。
 喜劇映画では、

  • 2008年の冯小剛「狙った恋の落とし方。」が3億元、300万元で撮った寧浩の「クレイジー・ストーン~劣翠狂騒曲」が興収2300万元と意表をついた。2012年に喜劇俳優徐噂の正月映画「ロスト・イン・タイランド」が12億4000万元と大入りになって2010年中国公開のアメリカ映画「アバター」の最高興収13億2000万元に迫った。
陸川監督が2004年に「ココシリ」で密猟者と戦う男たちを描き、2011年に日本人俳優を起用して「南京!南京!」を撮って、2億間の興行収入。 張芸謀の文化大革命下の初恋物語「サンザシの樹の下で」は日本公開されたが、6億元かけた南京事件映画「金陵十三美人」は日本公開未定。 女優の徐静蕾が「トララの昇進日記」、趨薇が「私たちの逝ってしまった青春に」、蒋要魔が「空を見上げて」を監督した。また李玉は「ブッダ・マウンテン」で地震後の女性の心痛を、胡攻は「孔子の教え」を撮った。


主旋律映画 主旋律映画とは、ある一定の主題や基調となる考えで貫かれた映画などのこと。つまり、中国社会では中国共産党の『指導』が一つの基調となっている。そのために映画や文芸作品には、恰も音楽の中のベースとなる「調べ:旋律」のような一定の方向性や社会性がその基調に求められる。これを称して「主旋律映画」と呼ばれるようだ。 


私見
このような映画や演劇における主義主張は、何も中国に限ったことではなく、アメリカ映画のジョンウェインが活躍した西部劇などはもろに主旋律映画と思えるのだが・・。
  • 中国映画独特の主旋律映画では冯小剛が「戦場のレクイエム」で国内戦の激烈さを、「唐山大地震」で耐える家族を描いた。
  • 建国60年の「建国大業」、共産党創立90年の「建党偉業」と作られ、辛亥革命100年の「1911」はジャッキー・チェン主演100本目で総監督をした。霍建起が「愛のしるし」で共産党幹部瞿秋白の生死を恋愛映画タッチで描写した。
  • 無名の新人滕華弢の都市型恋愛映画「失恋33日」が3億5000万元と大ヒット。「孔雀。我が家の風景」でカメラマン顧長衛が文革後の家族を、侯味が「ジャスミンの花開く」で、上海3代の女性を措いて監督デビュー。陳凱歌は「花の生涯梅蘭芳」を、姜文は「さらば復讐の狼たちよ」で軍閥時代の非情を措いた。ポスト第六世代監督として王競、梁婷、主唱飛たちが登場。


中国映画100年

中国映画100年を迎えた2005年に巨大な中国電影博物館が北京に完成。また、中国映画のはじまりとなった「定軍山」も劇映画化された。中国映画は種類多彩、娯楽性強調、映画館系列化で、世紀末不振を克服。
2012年は製作700本、興収170億元と、前年比30.18%増の史上最高になった。興収の半分近くは外国映画で国産映画が映画館からはみ出る状況もあるが、映画の文化産業化の勢いは止まらない。




中国百科検定攻略「第4部 文化・芸術・風俗習慣」のホームページに戻ります。